李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領41

韓国社会の混乱と無能な政府
日付: 2016年04月13日 09時09分

来るべきことが来た

 李承晩は外交官かつ軍人であり、戦略家かつ政治家だった。世界最下位の極貧国の指導者として、米国の政治家とぎりぎりの戦いをした。時にはなだめ、時にはやりあった。彼は大韓民国を建設し、国家を滅亡の危機から救った。李承晩は長らく韓国国民が恵沢を得る韓米同盟を締結するために、死を覚悟した戦略的行動(反共捕虜釈放)を断行した。
 老境における強欲さが最後は彼を政治的に失敗させたが、李承晩に対する評価は歴史家の役割だ。すでに李承晩は国父の列に伍している。李承晩のために目的を達成できなかった北韓とその追従勢力は、李承晩の功を矮小化し、過ちを誇張しているが、李承晩はまさに外交の神と呼ばれる優れた能力で、大韓民国を建国し守った人物であることを否定する人は一人もないと確信する。
 1961年5月16日、大韓民国で軍事クーデターが勃発した。だが、これが韓民族の歴史で初めての「軍事政変」ではない。高麗末期には武臣政権の登場があった。1961年の5・16クーデターは、世界史的に見て非正常でもなかった。当時、新生国家での軍事クーデターは珍しくなかった。軍部によるクーデターが第三世界の国々で珍しくない政治現象となったのには、それだけの理由が十分に存在した。
 まず、第三世界の国々の中で最も現代化された組織が軍部であり、第三世界の国々のほとんどにおいて、その国で最も教育を受けていた集団がまさにその国の将校団だった。これは1960年代の大韓民国の場合も同じだった。韓国戦争を通じてその規模が大幅に増強され、無視できない韓国社会の中枢勢力になった大韓民国の軍部は、当時どの組織よりも現代化された組織で、かつ最も学力の高い組織だった。
 大韓民国が世界の先進国の仲間入りをした今この時点でも、大韓民国の将校団は、この属性を大体維持している。大韓民国の将校になるためには、4年制の大学以上を卒業しなければならないのだが、構成員全員が大卒以上の組織が、大韓民国将校団を置いて韓国にあるだろうか。
 知識人が口癖のようにいった「無知な軍人」という言葉は、当時の状況に対する正しい表現でない。特に1960年代初頭、大韓民国の将校団は最も「学識のある」人々だった。西欧を代表する米国を最もよく知っており、米国の戦略を最もよく認識していた人々こそ当時の大韓民国将校団の構成員だった。米国の各種軍事学校を卒業した若者が所属していた韓国の将校団は、1960年代初頭の韓国社会のどの集団よりも現代化、組織化、高学歴化されていた。しかも、政治権力の核心である「暴力」まで掌握していた軍部が政治に介入する蓋然性は常に存在していた。
 1960年4月19日に起きた学生義挙は、4月26日の李承晩下野宣言を引き出し、政権交代を成功させたが、自分の力で政権を取れなかった第2共和国(李承晩の退陣から朴正熙政権誕生までの期間)は、それこそ混乱と無秩序の連続だった。当時の大韓民国の水準で「自由放任的な政府」とは、実際には発展途上国の政治発展の基本である「秩序」も維持できない「無能な政府」と同義だった。 
 米国の政治学者サミュエル・ハンチントン(Samuel P. Huntington)は、政治的発展の基礎を「秩序」に求めた。民主党が政権を握った第2共和国は、大韓民国社会に「秩序」を提供できなかった。特に、北韓からいつ攻撃されるかわからない危険な状況下に置かれている大韓民国に、基本的な秩序がないということは、軍事クーデターを正当化させる要因となった。小学生が担任の先生を変えてほしいと街頭デモをするまでになり、大学生は当時の世界の政治構造を完全に無視し、北韓との協商を通じて統一国家を建設すると叫んだ。
 第2共和国は、民主主義政府というより無能政府だった。特に北韓との統一協商を主張する学生は、「民族統一連盟」という左翼性向の組織に所属した人が多く、彼らは民族分断を解決し経済発展をなすためには、外勢、つまり米国を排除することが必要だと主張した。彼らの主張は過激すぎて同調する人はごく少数にすぎなかったが、多くの国民が憂慮した。


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