六三亭義挙 密告により失敗
3月17日、義挙当日。韓国人同志たちは、義挙を成功させるために最終的に動線を整え、自分の役割を再確認するなど東奔西走した。午後5時同志たちは、フランス租界大世界裏の中国料理店三和樓で簡素な送別会を設けた。元心昌氏など義士らのために用意された会は1時間ほど続いた。席を立ちながら白貞基氏は、柳子明氏に「来世で会おう」と別れのあいさつをした(『抗日革命闘士〓波白貞基』)。生きて再会することができないことを直感していた。
同志たちが計画した経路は、A、B、C。有吉の宴会が9時20分頃終了という矢田部の報告を受けて、元心昌氏、白貞基氏、李康勲氏の三義士は矢田部とともに、借りたタクシーに乗ってA地点である松江春に向かった。その時刻はおおよそ8時半から9時までの間であったと推定される。この時、矢田部は六三亭の向かいにあるB点「カフェO・K」に移動し、有吉の動静を探り、有吉が料亭から出てくる気配を捉えたら、近くに待機している元心昌氏に知らせ、元氏は松江春に待機している白貞基氏と李康勲氏に知らせ義挙を進めるというシナリオであった。義挙を成功裏に終えたら、C地点「日本人クラブ」の前に準備しておいた車で現場を離れることにした。
李康勲氏の回顧によると、タクシーから降りた後、白貞基氏と李氏は菓子袋に偽装した武器の包を脇に挟んで落花生を食べながら、松江春の2階食堂に上がった。ところが、この時、予期しない状況が発生した。元心昌氏が約束した地点に向かう途中後ろから、この二人に急いで手を振ったのだ。なにか早急に知らせなければならない状況の変化を感じたとみることができる。
後日李康勲氏は回顧録で、「元心昌氏が手を振る行動をとったせいで逮捕された」という主張をした。しかし、元心昌氏は十分に逃げる時間があったにもかかわらず松江春に入った。そのため、表面上は元心昌氏のシグナルが逮捕される口実になったと見えるが、決定的な失策と見ることはできない。
当時、松江春にはすでに日本の警察が従業員姿に変装して潜伏していたからである。事件発生から10日目、1933年3月27日付で駐上海日本総領事の石射猪太郎が外務大臣伯爵内田康哉に「有吉公使暗殺による不逞鮮人一味検挙に関する件」という報告書を発送していたという事実からも、日本当局が事前に義挙計画を把握していたことを知ることができる。
報告書は、(1)発覚の手がかり、(2)検挙の端緖、(3)犯行の経緯、(4)犯行の背景、(5)金九一派との関係の有無などの項目があり、40ページに及ぶ長文であった。南華韓人青年連盟とB・T・Pなど韓国人アナーキストの組織体系と活動家の身元と出身地、顔立ち、写真まで細かく盛り込まれていた。(2)項目の「検挙の実施」では、「午後8時、一味が出動することが確実である情報に接し、武昌の交差点付近に数名の動哨を配置しており、松江春前にも3人の監視員を潜伏させた」と報告した。
その結果、松江春に進入した韓国人同志たちは、義挙を目の前にして日本の警察に逮捕され、三人の同志は、上海虹口警察署に収監された。誰かの密告のために、義挙が水の泡と消えてしまったのだ。
予審起訴罪名に器物毀棄の疑いが含まれていることから、3人は武器を使用することができない状況で、頑強に抵抗したと推定される。一方、一緒にタクシーから降りた矢田部は、警戒が厳重なことに気がついて避難し、以後行方不明となった。
このため、密告者が矢田部という主張が相次いだが、今でも密告者が誰なのかは五里霧中だ。関連人物の中で明らかに疑いのある人物を探すことができないためだ。
鄭華岩氏は回顧録で「日本人沖」と指定したが、矢田部は呉世民という活動名の他に違う名前は使わなかった。石射総領事が1935年4月12日付で福建省廈門の日本総領事に、矢田部を捜しだして逮捕しろ、と促している記録も残っている。 (つづく)