国連韓国臨時委員団は、米軍政と協議して南韓地域での総選挙を1948年5月10日に実施すると合意し、3月29日から選挙人登録を始めた。ソ連は総選挙を妨害するため南労党に暴力闘争を指令する一方、金九などを利用する工作に乗り出した。
済州島内の南労党勢力は、中央党結成からわずか2カ月後の1947年2月12日、済州島委員会を結成し、2月23日には民民戦(民主主義民族戦線)済州島委員会を結成して済州道を事実上統治した。南労党軍事部の直接的な指導の下、元教師で日帝の学徒兵だった金達三が率いる「人民解放軍」が結成された。彼らは島全域の数千人の部落人民自衛隊の支援を受けた。
南労党員は日本製の小銃と手榴弾、剣などで武装し、警察支署を攻撃。軍・警や右翼青年団体と戦った。4月3日、24カ所の警察署襲撃を皮切りに済州島は制御不能に陥った。
米軍政は警察1700人と800人余りの国防警備隊兵力を済州島に急派し、人民遊撃隊を討伐した。暴徒の数は当時の調査記録に3000人以上となっている。
南韓の総選挙妨害が目的である済州4・3暴動の渦中、金九と金奎植は左翼と一緒に総選挙阻止を宣言し、南北協商に出た。ソ連は金九が南北協商に参加するよう多くの努力を傾けた。ソ連軍政の民政庁長であるレベデフが「金九との関係に対する我々の扇動路線に関する指令」を仰ぐと、米ソ共同委員会代表のシュチコフは「金九を協商に必ず参加させよ」と強調した。信託統治反対を主張してソ連の路線に反対の立場をとった金九が平壤に来れば、結果的にソ連の路線を正当化することになるからだった。
ソ連と北韓は南北協商を北韓共産政権の正統性を確保する基盤とするため多くの努力を払った。彼らは正統性確保のため推進してきた統一戦線戦略上、金九の参加が絶対必要だった。金九と金奎植の南北協商は、南側招請待対象者の選定から代表者連席会議の日程と手順に至るまで、すべてをレベデフが指揮した。
レベデフは「南北韓情勢報告は、金日成派、金枓奉派、許憲派の三つのグループが行う。意見を交換した後、政治情勢に関する決定を採択する」というふうに会議の進行方向を事前に決めた。初日の会議はこうして、2日目の会議はああせよ、などと細部指針を作っていた。
金九は平壌に発つ4日前の4月15日の夕方、京橋荘で開かれた歓送行事で、南北協商に臨む心境を表明した。金九は南北会談でどのような成果が収められるかについて確信がないと吐露した。金九と金奎植が多くの国民の引き留めを振り切って平壌へ行って参加した会議は、二人が金日成に送った2月16日付の書簡で提案した「統一政府樹立のための南北の政治指導者間の政治協商」とはほど遠かった。
平壌での会議は、ソ連軍政の脚本通りに進んだ。会議が開かれる前にすでに決議文が採択されていた。会議最終日の4月23日、南北の代表者は、「南朝鮮の政治情勢に関する決定書」、「全朝鮮同胞に檄する」、「南朝鮮の単選単政反対闘争対策に関する決定書」、「米ソ両国政府に送る全朝鮮政党・社会団体連席会議の要請書」などを満場一致で採択した。この決議文は「連席会議の開催と関連して金日成に助言を提供することについて」という4月12日付のスターリンの指令を助詞までコピーしたものだった。(つづく)