大韓民国の建国史(25)

金九と金奎植 南韓だけの選挙に反対
日付: 2016年04月06日 10時12分

 国連の決議で、南韓での総選挙による政府樹立が既成事実化すると、左翼共産系列は総選挙の拒否と大韓民国建国反対闘争に出た。元々「韓国がソ連邦の一つに編入されることを願う」といってきた朴憲永の南労党は、テロや暴動などの地下活動を展開。米軍政の逮捕を逃れて北へ逃げた朴憲永は、ソ連の支援でゲリラを養成しながら南労党の暴動を指揮した。
 金九や金奎植など上海臨時政府系列は、1948年1月中旬までは国連監視下の南北韓総選挙に賛成していた。金九は47年12月1日、「李承晩博士が主張する政府は結局、私が主張する政府と同じで、それを単独政府と呼ぶのは遺憾」という声明を発表した。金九は48年1月25日にも「国連監視下で樹立される政府が中央政府なら、38度線以南だけの選挙でも参加する用意がある」と総選挙に参加を表明した。
 だが、金九は翌日の1月26日、「米軍とソ連軍が撤退していない南北の現状態では自由な雰囲気が期待できないため、二つの軍隊が撤退した後、総選挙をして統一政府を構成すべき」と制動をかけ始めた。金九は2月10日、「私は単独政府樹立に協力しない」と、総選挙への反対を明確にした。
 金九と金奎植は2月16日、密かに平壌の金日成と金枓奉に南北要人会談を提案する書簡を送った。李承晩は3・1節記念辞で、総選挙反対は共産化と同じ主張だと述べ、南北協商を推進する金九と金奎植を批判した。
 金九が建国直前に姿勢を変えた理由は、臨時政府の駐仏外交委員だった徐嶺海と平壌から南派された工作員・成始伯に包摂させられたためだった。
 金九の追従者だった趙擎韓は「徐嶺海が『南北韓を通じて総選挙をすれば先生が大統領になれるのに、なぜ李承晩が主導する南韓だけの選挙に参加しますか。金日成も金九先生を大統領にしようと万全の準備を整えています』と執拗に説得した」と証言した。
 労働新聞は97年5月26日付の記事で「成始伯同志は、4月の南北連席会議を成功させるため、金日成同志の高い権威を持って、極端な反動分子だった金九先生を変える事業にも大いに力を入れた」と成始伯(丁向明)を称えた。
 金九と金奎植の南韓だけの政府樹立反対は建国に大きな負担となった。まず、金九は解放前の大韓民国臨時政府の主席、金奎植は副主席だった。両者の反対は、独立運動の象徴が単独選挙に反対しているという雰囲気を作った。
 二人の金氏がそれまで右翼陣営だったため、彼らの反対は右翼陣営を弱体化させる一方、南労党など左翼勢力の主張に計り知れない力になった。さらに国連韓国臨時委員団に影響を与え、総選挙は取り消しになりかねない状況になった。国連韓国臨時委員団は、南韓の右翼指導者まで単独選挙に合意できなければ、選挙を延期し国連に戻って新しい指示を受けるべきだと主張した。だが、国連小総会は1948年2月26日、国連委員団が活動可能な南韓地域での選挙実施を賛成31・反対2・棄権11で可決した。
 ホッジ司令官は3月1日、本国の訓令で、南韓での総選挙実施を発表した。この発表を聞いた李承晩支持勢力は歓呼したが、単独選挙に反対してきた金九と金奎植は衝撃を受けた。二人は南北の指導者が会って真剣に討議すれば分断は避けられるという夢と希望を持ち、南北交渉に出る。だが、彼らの努力が冷戦という米ソのグローバル戦略を元に戻す可能性ははじめからなかった。(つづく)


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