在日の英雄 義士 元心昌13

尹奉吉義士「弁当型爆弾」を準備
日付: 2016年03月30日 00時51分

六三亭義挙 Dデーは3月17日

 3月6日、韓国人アナーキスト独立運動家たちは、有吉公使を暗殺することを決意し、それに基づき執行者として元心昌、白貞基、李康勲の3人を決めた。また、義挙を決行すると同時に声明を発表して、メディアへ露出させるという方針を確定した。中国と日本の密室結託を世の中に暴露して、日本帝国主義の拡散を阻止したいという心算だった。

六三亭義挙に使用された武器

 しかしこの時点で、活動家たちが掴んでいた情報は限られていた。有吉の顔さえ知らない状態だった。日中の要人の間で、密室交渉がいつ、どこで行われるのかも把握していなかった。
 再び元心昌氏に重い任務が任せられた。有吉公使の動向と個人情報を調べることであった。元氏は寝食をともにしていた日本人の同志、矢田部勇司(活動名・呉世民)に協力を要請した。矢田部はこれに賛同して義挙に協力することになり、3月9日、有吉の顔写真と、彼が普段使用している車2台の車両番号、公使の主なスケジュールを把握することに成功した。その中でも、重要な情報は、密室交渉の日程であった。元氏は、日中関係者の野合が3月17日の夕方、上海共同租界の文藍師路(略称・文路)にある高級料亭「六三亭」にて、有吉の送別会形式で宴会が開催されるという情報を入手した。そしてそれらを 同志たちに伝え、一緒に議論を重ね、義挙の計画を確定した。
 「当日夕方、有吉が宴会場から出て自動車に乗り込む瞬間を襲撃して爆弾を投擲する」
 そして同志たちは一人ひとり、資金調達、武器入手などの役割を分担した。その後、白貞基氏は、弁当型爆弾1個、拳サイズの爆弾1個、手榴弾1個、拳銃2丁を準備して同志鄭華岩に任せた。この時の弁当型爆弾は尹奉吉義士が1932年5月の虹口公園義挙の際に残していた一つであった。
 義挙の準備は着々と進められた。13日と16日の二回にわたって六三亭とその付近を下見した。義挙の際の待機場所は武昌路の中国料理店松江春を選定した。松江春は六三亭から一ブロック離れており、動線が短く、大衆食堂ということもあり、セキュリティも容易であったため、待機場所には最適であった。同志たちは3月17日のDデー(作戦開始日時)を前に移動経路や行動要領などを議論しながらシナリオを具体化していった。裁判記録と証言で確認されているシナリオは、次のとおりである。

 (1)日本人同志が六三亭の向かいにある工藤自動車店で待機し、有吉が退席する時間を、文路と武昌路の間の小路にいる矢田部に知らせる。
 (2)この情報を矢田部が松江春に待機している三同志に通知し、白貞基と李康勲は、すぐに出動して有吉に対して爆弾を投擲する。
 (3)元心昌氏は乍浦路と武昌路の交差点に車で待機し、爆音の後(爆弾の炸裂した音が聞こえた後)3分間待つ。同志たちが来なければそのまま離れる。

 行動要領も決めた。白貞基が先に弁当型爆弾を有吉公使に投擲し、続いて李康勲は手榴弾投擲と一緒に小型拳銃を使用して、白貞基も大型拳銃を使用して、可能な限り逮捕を避けるようにする。すなわち、六三亭義挙のシナリオを要約すると、白貞基と李康勲が有吉に爆弾を投げた後、車で待機している元心昌氏と合流して、現場を離れるということだった。そして、ついにその日がきた。
        (つづく)


閉じる