エリソン計画によって1947年10月28日、韓国問題が国連に正式上程された。ソ連代表のアンドレイ・ヴィシンスキーは強く反発、「米国の提案はモスクワ協定違反であり、ソ連政府は違反行為を絶対に容認しない」と警告した。だが、国連総会は韓半島問題の討議を始めた。
韓国問題が国連に上程されたことで韓民族は国連と深い縁を結ぶことになる。国連総会本会議は11月14日、国連監視下の南北韓総選挙決議案を賛成43、反対0、棄権6で採択した。総会決議第112号の主な内容は、人口比例による秘密投票の選挙を1948年3月31日以前に実施し、制憲議会構成と憲法制定、国連韓国臨時委員団の設置、そして占領国と90日以内に撤兵問題を協議することだった。李承晩が1946年から主張してきた臨時政府樹立主張が最終的に勝利したのだ。
南韓の右翼陣営は国連決議を歓迎した。李承晩と韓民党はいうまでもなく、臨政を代表して韓国独立党を率いる金九と、左右合作運動を主導した金奎植も歓迎した。金九は李承晩が主導する政府樹立運動を支持する声明を発表。ソ連の妨害で北韓地域の選挙ができなければ南韓だけでも選挙をし、政府を樹立すべきと主張した。
北韓は1948年2月8日、正規軍の「朝鮮人民軍」を創設した。総兵力6万人で、1万人はソ連の支援を受けてシベリアで戦車や航空機および現代式通信機器について訓練された幹部兵力だった。
南韓で国連が主管する建国の動きが具体化されると、南労党は暴力闘争を強化した。南労党のパルチザンは各地で軍事訓練をしたが、中には釜山郊外の名刹、梵魚寺地域も含まれていた。警察の通信や訓練部門に浸透を図った左翼勢力の陰謀もこの頃摘発された。
1948年1月8日、9カ国の代表で構成された国連韓国臨時委員団が韓国に到着した。ところが同22日、国連駐在ソ連代表のアンドレイ・グロムイコが「国連韓国臨時委員団の入北を拒否する」との声明を発表した。国連委員団は任務遂行が難しくなったため「国連に戻って新しい訓令を受けるべきだ」という雰囲気になった。
危機を感じた李承晩は、梨花女子専門学校出身の女流グループ「楽浪クラブ」の国連韓国臨時委員団歓迎パーティーで、委員団総長のメノンが毛允淑に魅了されたという話を聞き、毛允淑にメノンを説得してほしいと電話で頼んだ。月見に行こうとメノンを誘った毛允淑は途中、鍾路5街で「梨花荘(李承晩宅)に寄って高麗人参茶を一杯飲んでいこう」と、強引に車を梨花荘へ向けた。
李承晩夫妻は、事前連絡を受けていたものの、眠っていたかのようにパジャマにガウンだけをはおり一行を迎えた。李承晩は一行の前でパジャマを着替え、きまずい雰囲気をユーモラスにやわらげた。40分間の歓談は笑い声が止まらなかった。会見は大成功だった。
李承晩は毛允淑を通して、メノンに「南北韓全体の総選挙が不可能なら、委員団が自由に監視できる地域だけでも総選挙をして、政府が建てられるようにしてほしい」という要望書を提出した。そこには李承晩を支持する政治指導者60人あまりの署名もあった。
国連小総会に韓国問題を報告するためニューヨークに行ったメノン韓国臨時委員団総長は2月19日、「国連の監視が可能な地域の総選挙」を提案する報告演説をした。この勧告に基づいて国連小総会は2月26日、米国が提出した「監視可能地域の選挙案」を通過させた。 (つづく)