元心昌氏の情報は正確だった。実際に日本はこの時期、中国国民党政府を買収するための工作を行っていた。駐中日本公使の有吉明は、悪化した日中関係を打開するという名目で2月14日、国民党の総理大臣である段祺瑞に続いて3月上旬には、南京で外交部長の羅文幹とも接触した。国民党内部には親日性向の人士が多くいた。1932年7月、有吉が駐中公使に赴任する時も「有吉の中国派遣に大きな期待を持っており、特に満州問題の解決に一大進展を見ることができると見て歓迎」(東亜日報1932年7月25日)した。
有吉が関わった人物の中には、国民党の実権者である蒋介石の側近もいた。蒋の義理の兄弟である宋子文と、対外政策の決定権を持つ汪兆銘が代表的な人士で二人は日本に傾いていた。汪兆銘の親日行為は歴史の記録にも残っている。その年の3月末、欧州歴訪をしてきては、「失地の回復は不可能である」と満州を放棄しようと公の場で発言し、1940年3月には親日を露骨化した南京政府を樹立して、主席に就任した。さらに彼が一生を終えた場所も、故郷ではなく、日本の名古屋であった。
このように、有吉公使が中国の要人たちに会いに通ったのは、外交的妥協案を模索するための交渉ではなかった。金を使ってでも、中国内部に親日派を育成して血を流さずに満州を接収しようとする陰謀の画策であった。日本はすでに買収に成功した実績も持っていた。1932年11月4日、黑龍江省ハルビンの軍閥である馬占山を300万円で買収。日本は馬占山を説得しようと外相を筆頭に総領事2人、警察、軍人、特務などの人脈を総動員した。
話を戻して、3月5日夜の、元心昌氏の報告を見てみると、韓国人アナーキストたちは、これら日本による中国買収工作という下心を正確に見抜いていたという事実を知ることができる。「有吉が目的を達成した後、4月頃、日本に帰国するだろう」との部分では、日本の買収工作が仕上げ段階に突入したことを判断したと見える。アナーキストの同志たちは、「日中密約を妨害し、日中の野合を両国民に暴露する」とし「その手段として有吉公使暗殺を全会一致決議」した。
3月5日夜、挙事方針は決定した。しかし、この日の会議はこのまま終わらなかった。挙事実行者を定めることができなかったためだ。最初は白貞基が「私は、肺病を患っていて、余生はいくらも残っていない」と率先して実行者を自ら要望したが、11人の団員全員が自願したため、誰にするか決めることができなかった。結局、3月6日午前10時に、この場所で再び集まることにして別れた。
翌日再び集まった同志たちは、11人の中で年長者である「柳子明、鄭華岩の二人は先輩であり、組織の指導的幹部なので、今後の活動に備えて除き、李圭昌は、年少者であるため除外」(朴基成証言)させた。残りの8人は最後まで自分が実行者の適任者という主張を曲げなかった。鄭華岩が「それでは、くじ引きで決めるしかない」という意見を出すに至った。
紙8枚を鄭華岩の中折れ帽の中で混ぜた後、ひとりずつくじを選んだ結果、実行者を意味する「有」(有吉の略字)の文字が書かれた紙を選んだのは元心昌氏、白貞基氏、李康勲氏の三人。命を落とすかもしれないという局面でも、互いが実行者になりたいと、くじ引きまでした場面は、当時の独立運動家たちの固い覚悟を推察させる。朴基成氏は、「誰もが祖国のために命を捨てることを光栄に思っていたので、恐怖感は感じることはなかった」と振り返った。
一方この時期、満州領有権をめぐる日本と中国の対応態勢は相反した。日本は、中国内の親日派を買収して育成するという融和策を行う一方で、中国を武力で圧迫していた。1933年2月24日、国際連盟は「日本が占領した滿蒙地方を自治政府にし、日本を除く列強が管理し、この地域は、中国の領土であるとみなす」という要旨の決議を採択。しかし、日本はその4日前に、この情報を把握して連盟から脱退してしまい、かえって中国大陸の武力侵攻を強化した。一方、中国は1931年から、国際連盟を相手に数年間外交戦に没頭していた。古典的な、この以夷制夷戦法の結果は悲惨だった。日本に占領される中国の領土は増えていくばかりだった。