1933年3月5日午後7時。上海フランス租界福履理路亭元坊6号。南華韓人青年連盟合宿所がある建物に、韓国人アナーキストたちが一人二人と集まり始めた。同志たちを集めたのは元心昌氏だった。
元心昌氏は連盟の書記兼宣伝出版担当だった。それだけではなく、動向の情報を収集し、時事問題を分析して研究会を主催する役割も担っていた。1933年7月5日、上海日本総領事館が作成した文書によると、連盟の会員たちは毎週土曜日に集まっていた。そして情報や新聞に掲載された時事問題を報告し合い、議論する場を持ったという。ところが、3月5日は日曜日。慣例であれば前日に集会が開かれており、この日は行われないはずだ。何か緊急を要する報告事項があったのだ。元氏は次のような趣旨で情報の報告をした。
「駐中日本公使の有吉明が中国の国民政府軍事委員長の蒋介石を買収し、満州を放棄させようと工作を行っている。有吉は、日本政府の中核である荒木貞夫陸軍大将の密令を受けて4000万ウォン(当時の2000万米ドル)で蒋介石を買収して、中国の日本への無抵抗主義を採用するようにして交渉を始めた。(両者の)交渉は、2月中旬に始まった。有吉は目的を達成した後、4月頃に帰国する予定であり、その送別会が上海の有名料亭のいずれかで行われるという」
衝撃的な報告であった。当時は、日本と中国が満州の領有権をめぐり武力、外交力を総動員して対立していた時である。ところが、日本が蒋介石政権を相手に満州を自ら放棄するよう工作を行っており、中国側の要人も密室交渉に応じているなんて、驚くべきことであった。元心昌氏は、日本の工作背景と共にこれを阻止する方策作りの必要性を説明した。
「現在、日本帝国主義は、全力を挙げて満州国の 開発を着実に援助している。このまま4、5年が経過すると、満州が堅実な組織を備えた国になるのは必然である。その時は、満州国に日本軍が定着し、日本は満州の鉱山などの豊富な資源をもとに、強力な帝国主義国家になるだろう。そうなると、朝鮮の独立は当分の間期待することができなくなる」
この日の集会は夜遅くまで続いた。同志たちは日中間の野合画策に憤慨した。
鄭華岩の回顧によれば「この日の夜の集いは計画的な招集」であった。長時間の討論の末、下した結論は次のようだった。
「有吉が持参した4000万ウォンは日本の民衆の膏血を搾取したものであり、蒋介石の行動は、中国の民衆を欺く行為、いわゆる売国奴の行動だ。我々、無政府主義運動家たちは、彼らの密約を日本、中国の民衆に暴露して、その実行を防止しようとするものだ。その手段として、まず直接行動によって有吉公使を暗殺する」
3月5日の集会の参席者に対して日本当局、独立活動家の証言には多少差がある。
日本当局は集会には、元心昌、白貞基、李康勲、李達、李容俊、楊汝舟、朴基成、金之江、嚴享淳、鄭華岩、鄭海理の合計11人が参加したと記録している。一方、この日の参席者の一人である朴基成の統一日報への寄稿文には柳子明、李圭昌(李会栄の息子)が追加されて、鄭海理と李達、李容俊の名前は見られない。日本は柳子明が鄭華岩からその日の集会の内容を聞き、有吉除去作戦に加担したと記録している。
ただし、様々な状況を勘案すると、鄭海理(活動名鄭鍾華)の出席確率は高い。鄭海理は集会の場所である亭元坊6号の建物1階で家族とともに起居していた。2階が南華韓人青年連盟同志の合宿所であった。さらに彼は南華韓人青年連盟で元心昌とともに文書部で宣伝出版物作成担当者であり、「ロンドン・タイムズ(英文)」と、「大公報(中文)」、「上海時報(中文)」に寄稿をするほど、識見の高い人物だった。元心昌氏もやはり大杉栄全集とクロポトキン(ロシアの無政府主義者)の相互扶助論などの文献を通読・分析する程、知的水準が高かった。
(つづく)