李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領36

「日本には寄らない」李承晩の願い
日付: 2016年03月09日 09時47分

李春根

1954年 訪米

 私は当初、この章(「米国にとってあまりにも不都合だった李承晩:米国の男である李承晩が米国を利用した」)を「アイゼンハワーと渡り合った李承晩」と決めて執筆していたが、より適したタイトルを崔記者の本から見つけたのだ。
米国ニューヨークの摩天楼の間を貫く大通りをオープンカーに乗って走りながら、高い建物から無数の紙吹雪が落ちる中で手を振って沿道の市民に応える英雄のパレードの写真を見た読者はいるはずだ。戦争に勝利して帰ってきた軍人や、米国の偉大な将軍がそのようなパレードの主人公になったりする。このようなパレードは、いずれも今日の米国が世界一の超大国になるのに寄与した英雄のための荘厳な行列だった。韓国人の中でこの英雄の行進の栄誉に預かった唯一の人物が李承晩である。
米国は韓国を分断した国だが、米国の韓半島分断はすでに説明したとおり、日本との戦争を何とか早く終えたいという一念と、日本を過大評価したために抱いた満州駐屯の関東軍への恐怖などが一つになって生じたものだ。日本を降伏させるのにまだ1年半以上かかるだろうと予想した米国は、ソ連の対日戦争参戦を促し、ソ連は日本がほぼ滅亡した瞬間である8月8日の夜12時に日本に対して宣戦布告した。ソ連は日本と不可侵条約を結んでいた状態だった。国際政治はこのように卑劣なものだ。
事実上、破竹の勢いで韓半島に進入するソ連軍を見て、米国には憂慮が生じた。日本と戦ったのは自分たちなのに、韓半島全体をソ連が占領するかもしれないという不安が、北緯38度線という考えを急浮上させた。一時、ソ連軍の前進を防ぐつもりで引いた38度線が韓半島を分断し、今でも韓半島が南北の2つの国に分かれたままになるとは全く想像もできなかった。米国はとにかく便宜主義に立脚して38度線を引き、日本との戦争を早く終わらせたかった。そして米国は無邪気にも、ソ連と合意して第2次世界大戦後の世界を平和にできると信じていた。米国人は、ソ連が日本の軍国主義やナチスよりもはるかにおとなしい国であるはずだと信じていた。
米国は大韓民国を自由民主主義の国家に建設する過程において、最大の後援勢力となり、国際共産主義勢力の支援を受けた北韓共産軍が1950年に南侵を始めたときも、大韓民国を救うため最初にかけつけた国だ。ただ、李承晩と韓国国民全員が望んだ統一を実現してはくれなかった。それでも米国は大韓民国を救い、大韓民国を軍事力で守ると約束した。米国にはソ連という共産主義大帝国と対決するためという名分はあったが、いずれにせよ米国の支援のお蔭で韓国は国際社会の一員として生き残ることができた。
韓国戦争は、李承晩を反共世界の英雄にする契機になった。李承晩は困難な戦争を成功裏に主導した軍事指導者の列に加わり、米国の招きで英雄の行進をするほどの人物になった。だが今や、ソ連と本格的に対決を始めた米国は、韓国が日本と国交を正常化し、米国の対ソ牽制戦略への参加を求めた。米国は、日本を敵にして生涯独立運動をした李承晩にとって到底受け入れられない韓日協力を求めていたのだ。韓日協力体制を構築するためには、まず韓日国交正常化から実現すべきだった。米国は李承晩を招待した。
1954年7月25日、李承晩夫妻は金浦空港での歓送式を終えて米国政府が提供した軍用機で米国に向かった。日本には絶対に寄らないという李承晩の願いから、アリューシャン列島のアダック島とシアトルを経由して7月26日(米国東部時間)、ワシントン空港に到着した。当時を思えば、今日の韓国大統領が最高級のボーイング747専用機に乗って米国を訪問できるようになったのは、われわれがなしえた成功によるものであり、喜ばしいことだ。日本の地は踏まないという李承晩のこだわりは、国際政治学の分析において個人的要因を考慮せざるをえないという主張が的を射ていると再確認させるものだ。
ワシントンの空港には査閲台と歓迎式場が用意され、米国政府を代表してニクソン副大統領夫妻、ダレス国務長官夫妻ら政府高官、ラドフォード合同参謀議長夫妻、リッジウェイ陸軍参謀総長夫妻ら軍高官が列席していた。


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