大韓民国の建国史(22)

米ソ共同委員会の決裂と韓国問題の国連移管
日付: 2016年03月09日 09時15分

洪熒 本紙論説主幹

 帰国した李承晩には多くの難題が待っていた。それまで摩擦を起こしながらも協力してきた金九が、独自路線を歩み始めたからだ。金九は李承晩の単独政府樹立の主張に対抗して、信託統治反対運動を通じての南北統一政府樹立論を打ち出し、金奎植は呂運亨と組んで左右合作政府樹立運動へと独自の道を進んだ。
李承晩が単独政府樹立案を強く推進すると、左右合作を進めていた米軍政との関係は尖鋭な対立状態になった。米軍政は李承晩を自宅軟禁し、外部からの出入りも統制した。郵便物は検閲され、政治資金ルートも封鎖された。
ところが1947年1月、対ソ強硬派であるマーシャルが米国務長官になると、韓国問題に関する国務省の方針も変わり始めた。ソ連との協商を通じて韓国問題を処理しようとした国務省の国際主義者たちは退いた。しかし国務省は方針が変わっても名分を守るため、ソ連との協商を通じての統一臨時政府樹立を諦めなかった。
無期休会に入っていた米ソ共同委員会は1947年5月21日、ソウルの徳寿宮で第2次会議を開いた。しかし、北韓にはすでにソ連占領軍が作った「北朝鮮臨時人民委員会」(46年2月8日設立)があり、1周年を期して「臨時」という看板を外し、金日成を委員長とする「北朝鮮人民委員会」(47年2月22日)となっていた。
彼らは「北朝鮮人民委員会はわが国においての初のプロレタリア独裁政権だ」と宣言。ソ連傀儡の共産独裁政権が樹立した。金日成などは米ソ共同委に出席するソ連代表部に「韓半島臨時政府」樹立によって北韓の社会・経済構造にいかなる変化も生じることを望まないという立場を伝えた。
南韓の金奎植を中心とする中道勢力は、米ソ共同委会議を、左右合作委を強化する契機にしようとし、左翼と共産党はモスクワ協定実践のための機会にした。左右合作派である金奎植が5月22日、「全体愛国者たちは米ソ共同委へ積極参加せよ」との声明を発表すると、李承晩は秘密指令を出して全国的な信託統治反対デモで対抗した。
米軍政は1947年7月1日、徐載弼(開化党の甲申政変に参加し、日本を経て米国に亡命。1885年に帰国し「獨立新聞」を創刊し「獨立協會」を結成。98年米国に追放)を軍政庁最高政務官として帰国させた。
徐載弼の登場は、左右合作を推進する金奎植に力を与え、李承晩を牽制する二重の目的があった。だが、85歳の徐載弼は通訳が必要なほど韓国語ができず、体も衰えていた。彼は帰国直後の記者会見で、「石鹸一つきちんと作れない韓国人にどうして自治ができだろうか」と失言し、国民を失望させた。
米ソ共同委員会第2回会議は口論ばかり続いた。米国務省は47年7月、韓半島問題をモスクワ協定から離脱させる「エリソン計画」を作った。「エリソン計画」は、米国務省北東アジア副局長のジョン・エリソンが作成したもので、韓国問題を国連に上程し、国連の監視下で、臨時議会選挙と臨時行政府の構成を進めるという内容だった。
エリソン計画は、李承晩が主張してきた南韓単独政府路線が正しかったことを認めるものだった。韓国問題の国連上程の知らせを聞いた李承晩は、米国で活動中の林炳稷と任永信に「最も大きな障害が除去された」という電報を送った。だが、米国が韓国問題を国連に持っていった本音は、違う所にあった。(つづく)


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