韓米相互防衛条約締結
李承晩と米国の特使ロバートソンの会談は続けられたが、米国はなかなか今まで明らかにした内容以上のカードを出さなかった。李承晩は韓米関係に対する豊富な歴史の例を挙げながら、米国が韓国を裏切ったと追い詰めた。具体的には1905年の桂・タフト協定、38度線画定などを非難した。
ここで李承晩は、米国側の要求を完全に拒否することはできないことを知っていたため、一部で譲歩することにした。李承晩は、ダレスに送った手紙で「われわれは休戦協定に調印しない。だが、われわれは休戦協定の遵守には協調する。国連が政治会議を通じて解決策を模索することを妨害はしない。わが国に対する私の憂慮が根拠のない心配であることを神に祈る」と書いた。李承晩は休戦協定に賛成はしないが、協力すると約束した。
ロバートソンは韓国訪問の18日間、毎日李承晩に会った。街頭は北進を要求し休戦に反対する市民の叫びで満ちていた。ロバートソンは、李承晩が休戦に反対しないという確約を受ける代わりに、李承晩の念願だった、休戦後に韓米防衛条約を締結するという約束をした。53年7月11日、李承晩とロバートソンの共同声明が発表された。共同声明には「両国政府は、現在協商が進行中の相互防衛条約を締結することで合意した」という項目が含まれた。
李承晩は休戦協定に反対しないという約束が盛り込まれたアイゼンハワー宛ての親書を書いてロバートソンに渡した。7月23日、アイゼンハワーは、韓国復興6カ年計画に同意。ダレスは休戦協定調印後、韓米首脳会談の開催を提案した。7月27日、休戦協定が締結された。
「韓米相互防衛条約が締結されることで、われわれは今後何世代にもわたって多くの恵沢を受ける」
休戦協定調印から1週間後の1953年8月、ダレスは約束どおりソウルを訪問した。韓国政府は彼を熱烈に歓迎。李承晩‐ダレス会談で、韓国側は政治会談期間中、独自の行動をとらないことを約束し、米国は準備してきた相互防衛条約案を提示した。根本的に韓国の要求を反映したものだった。李承晩‐ダレス会談の共同声明を受け、文案を調整した韓米相互防衛条約が8月9日に仮調印された。
李承晩は防衛条約が結ばれたことについて大いに満足し、「韓米相互防衛条約が締結されることで、われわれは今後何世代にもわたって多くの恵沢を受けることになる。この条約があるため、われわれは繁栄を享受するだろう。韓国と米国の今回の共同措置は、外部の侵略からわれわれを保護することで、われわれの安保を確保してくれるだろう」との声明を発表した。
韓米防衛条約は1953年10月1日、ワシントンで卞栄泰外務長官とダレスによって正式に調印され、54年1月に両国の議会で批准された。韓国側が条約6条の末尾の「いずれの締約国ももう一方の締約国に通告した1年後、この条約を停止させることができる」という条文に不満を抱いて批准書の交換を遅らせたため、同条約は54年11月18日にようやく正式発効した。
李承晩が感激を抑えられずいったとおり、韓米同盟は末永く韓国国民に恵沢を与えている。今まで戦争を抑止してきた韓米同盟は、韓国の経済発展にも寄与した。これからやってくる米中の覇権争いの時代に、韓米同盟の重要性は高まるはずだ。
最近、韓米関係について非常にいい本が1冊出版された。文化日報の米国特派員や論説委員を務めた崔炯斗記者の『アメリカ・トラウマある外交専門記者が探索した韓米関係の裏側の真実』という本だ。同書の論旨は「米国が帝国的野心を持って韓国問題に対したことはない。むしろ韓国は、米国の計画の中にない国だった」と要約できるだろう。本の表紙には「韓国は捨てられるのを恐れ、米国は間違って縛られるのを恐れた!」という言葉が書かれているが、韓米関係の政治外交史を本当に適切に示したものといえる。
崔記者の本の中に「米国にとってあまりにも不都合だった李承晩米国の男である李承晩が米国を利用した」という章がある。李承晩にこれ以上適切な表現はないだろう。私は崔記者が使用したタイトルをそのまま使うことにした。