1932年11月中旬、北京の無政府主義者・柳基石(活動名 柳絮)が上海に現れる。すぐに彼の宿所であるフランス租界の西門路武陵公寓に心元昌、柳子明、李容俊など「B・T・P」のメンバーたちが集まった。柳基石は同志らの前でその間の活動報告を兼ねて、一つの重大提案をする。
「北京で抗日運動をしながら、福建抗日会から7000円を受け取り、4000円を使って残金3000円があります。これで天津や北京の地方で大事件を起こせば、追加で2~3万円の資金の支援を受けることができます。集めたその資金を私たちの無政府主義運動に充当すべく、このための義挙をはかる同志を募集するために上海に来ました」 (1933年11月24日長崎地方裁判所刑事部元心昌裁判記録、1933年4月18日日本外務省報告書)
これと関連して日本当局の李容俊に対する1939年調書と1940年裁判記録では、柳基石の提案を前述の元心昌裁判記録の時とは違うように記録した。「福建省の中国人・奏望山が8000円を支援し、今後30万円程度の資金を獲得できる」と言ったという。ただし両方の記録に共通に登場する内容は、この日の武陵公寓会合が天津義挙の出発点として「資金を造成し、無政府主義朝鮮独立運動を拡散させる」という主旨を持っていたという点である。
「B・T・P」のメンバーたちは、会合で義挙の実行者を選出した。実行者は元心昌、柳基石、李容俊、金夜峰の4人。彼らは12月初旬北京に一緒に移動した。しかし北京には日本関東軍主力部隊と張学良が指揮する中国抗日軍の数十万の部隊が集まっていた。巨大規模の兵力がお互いに対置しているのに加え、軍施設の保安も鉄桶のように徹底していた。少人数で義挙を実行するのは簡単ではない状況だった。彼らは義挙の目標地を北京から天津に移すことにした。
この時金夜峰の役割が変更された。連絡責任者になって「B・T・P」の義挙計画を抗日独立軍に知らせるというものだ。彼は一行と離れて吉林省と海林(黒竜江省)の方に足を移した。当時海林は韓人の抗日武装闘争が一番盛んだった地域で日本軍3300人を殲滅した「青山里戦闘」を指揮した独立軍司令官・金佐鎭将軍の本拠地であった。
この時に金将軍は共産主義者にだまされて暗殺された後であったが、相変らず抗日運動が活発に展開されていた。無政府主義者だった金将軍は1930年1月朴尚實という高麗共産青年会メンバーに殺害された。共産主義者は独立運動の方向は武力闘争しかないという無政府主義者の信念を否定的にみていた。甚だしくは、路線が違うという理由で同じ血族である韓人活動家、特に無政府主義者に対しては殺傷もためらわなかった。
金夜峰が去った後、元心昌氏をはじめ実行者3人は北京を発って天津に移動した。到着日は12月14日夜12時頃、拠点はフランス租界にある交通旅館だった。彼らはここで手榴弾の使用方法、投擲場所、行動要領、役割分担など義挙の具体的な実行方案を協議した。
その結果、李容俊はイギリス租界ビクトリア公園横にある天津日本総領事官邸、柳基石は中国人街と日本租界境界線にある日本軍司令部にそれぞれ爆弾を投擲し、元心昌氏は同志たちが逮捕されることに備えて実行直後、上海と泉州方面の同志らに義挙消息を知らせる役割を引き受けた。
裁判記録では、元氏の役割が急に連絡責任者に変わった理由について「(天津の)地理をよくわからないため」と表現した。
しかし、これはどこまでも日本の調書記録であり、元氏の役割を断定するには無理がある。朴基成など同志たちは、一貫して元氏の義挙目標が「天津港に停泊中の日本気船」とみており、元氏は「その時に投げた爆弾は不発弾だった」と証言した。
Dデーは1932年12月16日午後6時30分。義挙はシナリオ通りに順調に行われた。事前踏査して約束した時間と動線に合わせて動いた。しかし残念ながら天津義挙は所期の目的を果たすことはできなかった。
日本総領事官邸に投げた爆弾は威力が劣り、官舎練兵場の一部だけを破壊させただけであった。日本軍司令部と天津港に停泊中の日本汽船に投げた爆弾は不発弾だった。3人は日本総領事暗殺、日本汽船沈没という目的を果たすことができなかった。悔し涙を飲んで現場を撤収しなければならなかった。
それでも慰めになったことは、天津義挙が韓人の独立意志として、あらゆるところに広がって行ったということだ。中国の華北地方のマスコミは、天津義挙を「朝鮮人が行った抗日救国義挙」と特筆大書した。
(つづく)