大韓民国の建国史(21)

米国の世界戦略変更と李承晩の訪米
日付: 2016年03月02日 00時00分

 1946年12月7日、ワシントンに到着した李承晩は韓国問題の解決のための建議書を米国務省に提出した。李承晩は約4カ月間、米国に滞在しながら米国の朝野に南韓過渡政府樹立の必要性を訴えた。李承晩のこの努力は、米国政府が47年9月に信託統治計画を白紙化し、韓国問題を国連に移管して南韓に民主主義政府を樹立する方向に政策を変更するのに寄与した。
 李承晩は47年1月26日、「米国務省内の一部の分子が朝鮮に独立を与えると言った米国側の約束の実践を妨害しているようだ。彼らは共産主義に傾いているようだ」と米国務省内の一部人士を攻撃する声明を発表した。この発言は当時、失言と見なされたが、数年後、(歴史的に)この指摘は正しかったことが証明された。国務省高官のアルジャー・ヒスがソ連のスパイだったからだ。
 李承晩が訪米中、南韓を統治している米軍政の失策を批判していたとき、米国首脳部は、戦略上の重大な変化を推進していた。ソ連は当時、スターリンの一人独裁体制の下、軍が占領した地域では自由、民主主義、自主独立の芽が摘み取られ、共産主義ファシズムが猛威を振るっていた。
 ソ連は黒海から地中海への通路を確保するため、ギリシャとトルコを共産化しようとした。東ヨーロッパとバルカン半島でソ連の膨張戦略をこれ以上放置できないと判断した米国は、世界戦略の基調だった国際主義、つまりソ連との協力政策を放棄し、対決や封じ込め政策に転換するようになる。
 駐ソ米国代理大使だったジョージ・ケナンの政策建議が決定的に影響した米国の対ソ封じ込め政策は1947年3月12日、トルーマン大統領が上院・下院合同会議で行った「トルーマン・ドクトリン」演説に集約されている。トルーマンは第2次大戦の同盟国だったソ連を主敵に設定し、冷戦に突入する。大戦後一つだった世界は民主主義と共産主義の二大陣営に分かれた。以来、封鎖政策は抑止戦略とともに東西冷戦時代の米国の対外政策の基調になり、ソ連が崩壊するまで続いた。
 米国は必要に応じ、封じ込め政策の基調を崩さない範囲で、社会主義圏になった領域の一部を取り戻す攻撃的な政策も取った。「巻き返し政策」(roll back policy)と呼ばれるこの政策は、6・25戦争のとき、国連軍が38度線を突破して北進したことにも表れている。
 米国はトルーマン・ドクトリンに続き1947年6月5日、西ヨーロッパの戦後復興を支援するマーシャルプランを発表した。トルーマン・ドクトリンは東アジアにも大きな変化をもたらした。米国の東アジア政策の中心は中国から日本に変わった。第2次世界大戦の敵だった敗戦国・日本の経済を復興させ、共産主義への防波堤とし、韓国と台湾は日本の経済復興のための地域に性格が変わる。
 4カ月以上米国に滞在しながら、米国の世界戦略の巨大な変化を把握した李承晩は、この変化を積極的に活用して南韓だけでも政府を樹立すべきだという主張を強く展開した。李承晩のこの主張は結局、米国政府を動かして南韓政府樹立へと政策を転換させた。
 李承晩は訪米帰途の47年4月5日、東京でマッカーサーに会った後、中国の南京に行って蒋介石と会談、南韓政府樹立への協力を要請した。李承晩は4月21日、蒋介石が提供した空軍特別機で帰国した。李承晩は4月28日に開かれた帰国歓迎大会で「南朝鮮過渡政権を先に樹立した後、国連に加入しよう」と主張した。(つづく)


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