李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領 第1部 -34-

瀬戸際の外交 米国から相互防衛条約を引き出す
日付: 2016年02月24日 00時22分

 李承晩は米国に自分ができることがいかに米国を当惑させられるのかを見せつける必要があった。反共捕虜の釈放は、李承晩が自分にできることは何であるかを米国に警告したも同然のことだった。米国務長官ダレスは、李承晩の措置を「背後から刺す格好だ」と非難し「最悪の場合、全面戦争になりそうだ。戦争が拡大する場合、原子爆弾を使用すべきかもしれない」と話したという。
 李承晩は国連軍司令官のクラークに手紙を書いた。「韓国国民はわが国の人々(反共捕虜)を死に追いやる国連の決定に従うべきか、それともわれわれの本来の目的を達成するため、盟邦と決裂してでもわれわれの決心を単独で履行する道のいずれかを選択せねばならなかった。ここでわが韓国国民は、われわれの本来の目的である人間の自由を最後まで守ることに忠実になることを決めた」という内容だった。
 米国の世論は李承晩を激しく非難したが、李承晩は非難に耐えられた。彼は自らとった措置を契機に韓米相互防衛条約の約束さえ引き出せるのなら、それほどの非難には耐えられると思った。李承晩は、彼が休戦に反対すると心を決めた場合、国連軍と共産圏がいかなる協定を締結しても、それを破綻させられるという例を見せた。国連側は、実際にこの時から、休戦協定の締結のためには李承晩の同意が必要であることを切実に感じるようになった。
 李承晩は休戦協定がまとまる前、米国との相互防衛条約を勝ち取ることを目標に邁進した。すでに李承晩は1953年4月30日、クラーク宛ての書簡で「米国は、韓国に休戦協定締結に協力することを希望しているが、休戦協定の先行条件として、米国には韓米防衛条約を受諾してほしい」と言及した。クラークは、韓国の休戦協定反対を緩和させる唯一の道が韓米防衛条約であると考え、これをワシントンに報告した。だが、米国は韓国軍を20個師団に増強し、10億ドルの経済援助をするという話はしながらも、防衛条約に対しては言及がなかった。
 李承晩は、大韓民国の安保を軽く考える米国に対して憤怒した。5月30日、アイゼンハワーに書簡を送り「相互防衛条約を結ぶという条件で、共産軍と国連軍の同時撤兵を提案する。共産徒党の一連の軍事的野合の恐るべき衝撃に対し、韓国に対応できることは何もない」と訴えた。李承晩は6月6日、声明を発表。防衛条約には第1に、米国は韓国が侵略されたとき、他国と相談せずに直ちに軍事援助と介入せねばならず、第2に、米国は韓国軍の増強を助け、第3に、韓国が独自防衛できるように米国は適切な武器、弾薬、軍需支援をする、という内容が含まれるべきと公に要求した。
 ついに6月8日、アイゼンハワーは「私は、休戦協定が終結されて閣下がこれを受諾し次第、米国がフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドと締結した防衛協定の線に沿って、貴国と条約締結のための協商する用意があります」という返事を送ると同時に、李承晩を米国に招待した。李承晩は今韓国を離れることはできないと断わり、代わりにダレス国務長官を韓国に送るよう要請した。
 米国は、ダレスが多忙なため、ウォルター・ロバートソン国務省次官補を送ると返し、李承晩はこれを受諾した。そしてその翌日、李承晩は反共捕虜を釈放する措置を断行したのだ。李承晩は、米国に韓国の意思を十分尊重せねばならないことを行動で示した。ロバートソンは共和党系の反共主義者で、経験と能力を備えた人物だった。彼は6月25日にソウルに到着。アイゼンハワーとダレスの親書を携帯してきた。
 李承晩は、共産主義者との対話が効果的な結果を生み出せないことも、休戦協定の会議場も共産主義者の宣伝舞台となっていることをよく知っていた。そして、合意がない場合は戦争を再開し、軍事的勝利を通じて統一を完遂すべきだという考えを持っていた。
 ロバートソン訪韓への李承晩の基本的な立場も整理された。一旦、米国が韓国の立場を受け入れた場合、韓国軍は国連軍司令部の残留と、休戦が実施される前に韓米相互防衛条約を締結しなければならないという内容が対米要求に含まれた。この内容は53年6月25日、李承晩とロバートソンの第1次会談で伝えられた。


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