元心昌氏が加盟した抗日独立運動組織「南華韓人青年連盟」は宣伝部、経済部、実行部、外交部、文書部の5部体制で運営された。元氏は宣伝部と文書部で組織の理論整備および無政府主義運動の宣伝活動、出版物作成、文書受発などの任務を担当した。一緒に活動した同志としては宣伝部に柳子明、柳基石、文書部に鄭海理、朴基成、李圭虎がいた。
日本の植民地時代に残された裁判記録および各種の無政府主義者の報告書によれば、元氏は青年学生の指導者として旺盛な活動をした。韓青連盟組織で書記兼宣伝を担当した彼は1931年8月20日、朝鮮が日本に併合された日である「庚戌国恥日」(8月29日)を控えて韓青連盟名義で「8月29日は朝鮮民族が他族の奴隷になった日である。奮闘して敵の牙城を壊して日本帝国主義を打倒しよう」という内容の檄文を印刷して配布した。
続いて同じ年9月下旬には、日本が満洲事変を起こして中国北部地方に侵略戦争を拡大していくことに反対する主旨の檄文1000枚を製作配布した。
ほかにも毎年3月1日独立万歳運動と5月1日「労働者の日」(メーデー)に合わせて抗日アナーキズムの檄文を製作して韓人、中国人などの活動家たちに配布した。
日本外務省の記録によれば、元氏は1932年7月上海・南翊で開催した在満洲朝鮮人青年体育団体の東方倶楽部の会員を対象にした修練会で社会問題および無政府主義思想の講演者として登場した。修練会参加者は、10代後半から 20歳前半の青年10余人であった。元氏は彼らと2週間の野営を一緒にして毎晩、抗日独立運動をしなければならない目的を青年同志らに説破した。
この時韓青連盟は一人でも同志を集めて力を糾合するため多くの努力を傾けていたことがわかる。何より韓青連盟の存在と無政府主義運動に対する宣伝啓蒙が必要な時であった。このために同志らは中国人無政府主義者の王亜樵の後援を受け、フランス租界の拉都路に「公道」という名前の印刷所を設立して、連盟機関紙の「南華通信」、「自由」をはじめ多様な宣伝物を発刊した。
共に同志間の思想研究、情勢動向および意見交換活動も持続的に行った。会合場所は主に上海・南翊にある立逹農業学校付近の家屋であった。これは柳子明氏がこの学校の英語および日本語教師だったからのようだ。
この時に注目しなければならないことは、韓人無政府主義運動家が国籍や民族に縛られないでいたという事実だ。1928年6月頃結成した国際組織「東方無政府主義者連盟」(東方連盟)と1931年11月結成した傘下組織「B・T・P」(BLACK TERRORIST PARTYの略称)は当時の無政府主義者たちが国際連帯を強化していたことを証明する。
東方連盟には韓国、日本、中国、台湾、ベトナム、インド、フィリピンなど6民族7国民が参加した。傘下組織の「B・T・P」を結成した代表人物では白貞基(韓人)、王亜樵(中国人)、佐野一郎(日本人)が挙げられる。「B・T・P」は秘密結社として日本の要人暗殺、敵の機関破壊、親日分子の粛清など実力行使を目的に生まれた。
団員には、米国人(ジョンソン、新聞記者)と台湾人(林成材)もいた。後日、活動家の李圭昌氏は「東方無政府主義連盟」と別に中国人無政府主義者の李石曽、呉致輝などと国際的義烈団体として「抗日救国連盟」を結成して、その傘下組織が「B・T・P」という主張をしたりした。
ただし、多数の独立運動家の証言と日本当局の取り調べ記録などをみると、「B・T・P」は東方連盟傘下の決死行動隊であったことが確実視される。日本当局は「B・T・P」をテロ集団やギャングとして描くために「黒色恐怖団」と呼んだ。
「B・T・P」の出現は、抗日独立運動家としては不可避な状況判断の所産であった。1930年代前半に露骨化した日本の大陸進出の野望を阻止しようとすれば、武力抗戦で正面突破するしかなかった。
満州事変に象徴される日本の北方進出計画は、抗日独立運動家たちには、決して黙過することができないことであり、「B・T・P」は、その闘志の現れであった。
1932年11月「B・T・P」は、本格的な抗日作戦に突入する。義挙の主導者は元心昌、柳基石、李容俊の3人。彼らの目は、日本関東軍の寄着港の天津を目指していた。
(つづく)