李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領 第1部 -33-

「韓国軍を国連軍傘下から撤退させる」
日付: 2016年02月17日 11時34分

 後に国連大使などを務めた韓豹頊は回顧録で、金浦空港に向かっていたアイゼンハワーは結局景武台を訪問し、李承晩に会ったという事実を伝えている。若干異なる話も伝えられているが、アイゼンハワーは李承晩の勢いに驚いて景武台を訪問し、予定よりはるかに長い時間、景武台にとどまった。
 李承晩は戦争が休戦で終結することを残念がったが、休戦を妨害するためのさまざまな要求を提示した。現実との妥協だったが、できるだけ多くのことを引き出すことが彼の戦略だった。李承晩は、韓半島から中国軍の完全撤退、北傀(北の傀儡)軍の武装解除などを要求した。韓半島に関する国際会議に韓国が参加することも条件として望んだが、ここにいくつかの条件を追加した。韓米軍事同盟を締結すること、戦後経済を復興させること、韓国軍の増強、米国の海・空軍の継続駐屯がそれだった。
 李承晩は休戦をするにあたって、米軍を韓国防衛に縛っておく戦略をとったのだ。
 すでに説明したように、国際政治学的にはかなり唐突な発想だった。世界最貧国と世界最強国の防衛同盟を休戦の条件として出した李承晩は、米国が今最も急いでいるもの(名誉の休戦)が何であるかをよく理解し、それを通じて大きなもの(韓米同盟)を勝ち取ろうとした。そのため、李承晩は命をかけてこそ可能な冒険(反共捕虜釈放)まで断行する覚悟ができていた。李承晩の戦略と度胸は、われわれの立場や能力からみれば交渉すらできそうになかった韓米同盟を生み出した。
 1953年5月頃、ほぼ2年間延々と続いた休戦交渉は、調印を残すのみの状態だった。だがそのとき韓国の都市は、休戦に反対する国民のデモ隊で埋めつくされていた。傷痍軍人までが休戦に反対するデモを行い、彼らのデモ写真は米国の新聞でも報じられた。韓国国民は、戦争の継続が自分たちの命を奪いかねない恐ろしいものであるにもかかわらず、統一をなせないまま戦争が終わることが無念だった。国民の休戦反対のデモは真剣なものだった。
 これに勇気づけられた韓国政府は、より強硬な休戦反対の立場を取ることができた。次善の条件を確保した後、戦争を休戦することが何よりも重要だった。
 当時、韓国政府は要求事項が受け入れられない場合、「必要なら全韓国軍を国連軍傘下から脱退させる」と脅した。英国女王の戴冠式に出席した白斗鎮国務総理は、ワシントンを訪問してアイゼンハワーに会い「仁川上陸作戦成功の後、軍事的勝利で統一を実現するといった米国が、なぜ態度を変えているのか。韓国だけでも統一の大業を成就させる」と訴えた。アイゼンハワーは「米国が助けなかったらどうするつもりか」と聞き返した。白斗鎮は「われわれはみな死ぬ」、「百万人の中国軍が駐屯したまま休戦になれば、結局は(みな)死ぬはずだから、そうなるくらいなら戦って死ぬというのが韓国の立場だ」と説明した。
 李承晩ももはや最後のカードを使う時が来たと結論を下したはずだ。李承晩は1953年6月18日未明、釜山、大邱、光州、馬山、永川、論山、富平の捕虜収容所から反共捕虜2万7000人を釈放した。17日の深夜から早朝の間で起きたこの一件は、極秘を維持しながら断行された最高の軍事作戦といえた。共産圏がこの事実を知れば、休戦協定に調印するのは難しくなったはずだ。李承晩は休戦協定を破綻させたかったし、アイゼンハワーに一杯食わす措置を断行したのだ。
 反共捕虜の中には脱出できなかった人々もいた。韓国国民は釈放された反共捕虜に隠れ場所と食べ物を提供した。李承晩の捕虜釈放作戦は大成功だった。共産主義国家への帰還を拒否する捕虜たちを釈放したのは、人道主義の側面でも正しいことだった。だが、この措置は韓国軍の38度線単独突破に次ぐ軍規を乱した事件にもなりえた。韓国戦争を総指揮した人は、国連軍司令官である米軍大将だったからだ。李承晩は、反共捕虜の釈放は正当な措置であり、釈放は自分の命令によるものであるという声明を発表した。
 李承晩の韓米同盟締結の要求に、米国が素直に応じるはずがなかった。


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