元心昌氏が上海に到着した時は、1931年春頃が有力だ。日本外務省機密資料第342号(1933年4月18日付)では、元氏は1930年4月28日刑務所から出所して、その年10月故郷に帰国した。11月鉄道で中国に移動し、北京の西太平湖民国大学付近に留まり、1931年3月天津から海路で上海に渡ったと記録されている。
京城本町警察署(1932年10月 24日付、本町は今の忠武路)は、1929年6月「東京学友会事件」で連座保釈の出獄中に「李竜吉から借金して帰国した後、昭和6年(1931)春頃上海に渡航以降、所在不明(逃走)」と報告書を作成している。
元氏の死後、同志たちの証言と統一日報報道からも「1931年4月単身で上海に到着して鄭華岩、柳子明などの同志と一緒に『南華韓人青年連盟』の強化に着手した」(1971年7月21日付)という内容が一貫して登場する。したがって、前号の第6部で出典として引用した外務省機密資料第340号(1933年3月27日付)は、元氏出所の年度が1年遅れで誤記されたとみるのが適当だ。
元氏が中国に移動する過程で興味深いことがある。直ちに上海に向かわず北京で4カ月以上滞在した点である。その期間は1930年11月末から翌年3月までである。これと関連して日本当局の元心昌記録をよく見れば、「潜伏期間に北京大学に通学した」、「全羅道出身の丁來東(当時28歳)から李容俊(活動家名 田理芳または千里芳)を紹介され、1931年3月頃李容俊と一緒に北京を出発した」、「天津で船に乗って上海にいる無政府主義者(アナーキスト)・鄭海理を訪ねた」、「フランス租界(=中国の開港都市にあった外国人居住地で治外法権地帯であった)を転々とする中、柳子明、李会栄(韓国初代副大統領・李始榮の実兄)と親交を結ぶようになり、その年7月頃からフランス租界の菜子路の鉄工所2階の家で暮らし始めた」という内容が登場する。
これらは日本警察が長い間、元氏だけではなく、多数の韓人無政府主義者を取り調べて得た証言と捜査を通じて整理した記録のため事実である蓋然性が高い。
元氏が上海に到着して心血を注いだのは、有名無実化されていた無政府主義抗日運動の糸口を開くことであった。緊急な課題は、抗日革命組織の「南華韓人青年連盟」(以下、韓青連盟)を盤石の態勢にする作業だった。韓青連盟は1928年3月創設された「在中国朝鮮無政府主義者連盟」の後身で活動は微々たる状態であった。
元氏は当時25歳の青年であったが、日本で理論を錬磨し豊かな実践闘争の経験を持っていた。一歳年上の朴基成氏も似たような時期に元氏の連絡を受けて上海に入って来た。日本留学派無政府主義者たちと20代の血気盛んな抗日闘争家たちが中国に集結していた。後に光復軍活動をする羅月煥、李何有、李炫瑾もこの頃中国に入った。日本で理論と実践を兼備した若くて鍛錬された精鋭アナーキストの中国進出は、沈滞していた抗日武装闘争前線に新鮮な活力を与えてくれた。
韓青連盟は成立宣言文で「日本帝国主義の鉄鎖を脱出する私たちは、自分の手で真実の自由と平等、友愛に基づいた新社会を建設しなければならない」と明らかにした。この時、組織再建で一緒に力を注いだ同志には鄭華岩、柳子明、白貞基、李康勳、田理芳、柳基文などがいた。
朴基成氏によれば、韓青連盟事務室には10余人が一緒に暮らしていたと言う。彼らは2・8独立宣言記念式、3・1独立万歳運動などの記念日ごとに檄文を撒布して抗日闘争を督励する宣伝出版物を製作した。
「生活は本当に大変だった。資金を上海に居住する同胞資産家から拠出したが、並大抵の苦労ではなかった。外国人で亡命革命家集団の私たちの生活が貧しかったのはむしろ当たり前だった。私たちは歯を食いしばって目的達成のために努力した」(朴基成氏、1971年9月15日統一日報証言) (つづく)