李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領 第1部 -32-

弱小国大統領という惨めさを痛感
日付: 2016年02月10日 10時08分

 米国は1951年6月26日、戦争勃発からちょうど1年が経った日、李承晩にも米国が韓国戦争の休戦を考えているという事実を通知した。
 北韓の戦争挑発を統一の機会にしようとしていた李承晩にとって、米国側の休戦提案通告は青天の霹靂のようなものだった。米国側の通告を受けた李承晩はただちに臨時閣議を招集。この閣議で李承晩は「ソ連が休戦を議論しようとするのは、彼らが敗北を自認するものであり、武力でできないから外交でやろうとするのは、実にばかばかしい奸計にすぎない」、「私はそういうソ連の提案を平和案とは認められず、認定もしない」と断言した。
 李承晩はすぐ休戦会談に反対する長文の強硬な声明を発表し、大韓民国国会もこれを支持する決議案を採択した。引退していたマッカーサーも停戦案を考えているトルーマンを痛烈に非難する演説をした。駐韓米国大使のムーチョは、米国国務省に「(李承晩は)いかなる休戦案にも反対するはずで、休戦協定に大きな障害になるだろう」と報告した。
 1952年は米国大統領選挙の年だった。韓国戦争を引きずっていたトルーマンは、人気が最低にまで落ちた。米国が中国や北韓などの三流国家との戦いで決定的な勝利を引き出せないもどかしさは、米国国民をして戦争を早く終わらせるのが得策であるという考えを抱かせた。このような状況に対応する政策を提示した候補は、共和党のアイゼンハワーだった。第2次大戦の英雄であり、5つ星の将軍であるアイゼンハワーは、「戦争において勝利に勝るものはない」、「大統領に当選すれば、韓国へ行く」などのスローガンで無難に当選した。
 次期大統領に決まったアイゼンハワーは1952年12月、韓国を訪問した。米国国民は、彼が韓国戦争をすっきり解決してくれると期待したが、彼は当選後に態度を変えた。韓国を秘密裏に訪問したとき、すでにアイゼンハワーの態度は変わっていた。いくら戦争中の危険地域であるとはいえ、そして次期大統領として身の安全が重要であるとはいえ、彼の訪韓はあまりにも秘密に付されたため、訪問の事実も数日後に報道され、彼が韓国のどの空港に来るかもわからず、出迎えすらない状況だった。
 李承晩は、国連軍(米韓連合司令部)司令官だったマーク・クラーク将軍の耳打ちでアイゼンハワーの訪韓を事前に知った。李承晩は大々的に歓迎しようとしたが、クラークはアイゼンハワーを困らせないでくれと要請した。クラークはアイゼンハワーの到着日時と場所を李承晩にも秘密にした。アイゼンハワーは、現在の大学路がある東崇洞の8軍司令部に立ち寄って韓国戦争に参戦中の自分の息子の近況を確認した。クラークは、戦争を勝利に導くための計画と韓国軍の増強を話し合いたかったが、アイゼンハワーの関心はもっぱら休戦にあった。アイゼンハワーは翌日、戦況の報告を聞いて自分の息子、ジョン少領に会った。そして午後は前線を視察した。
 李承晩は待ち疲れて、前線から午後4時頃に帰ってきたアイゼンハワーを訪ねた。李承晩は歓迎行事を準備したといって招待したが、アイゼンハワーは時間がないため参加できない旨を伝えた。その翌日、李承晩は首都師団に行ってアイゼンハワーに会い、ブリーフィングを聞いた。そして各々ソウルに戻ってきた。その日の午後、韓国を出発することになっていたアイゼンハワーは、李承晩への答礼訪問を考えていなかった。
 クラークは傲慢なアイゼンハワーが李承晩に別れの挨拶もせず離れるのではと心配した。それは途方もない欠礼であった。結局、景武台に待機していた李承晩にメッセージが伝えられた。時間がないため別れの挨拶もできず出発するという内容だった。李承晩は弱小国の大統領としての立場をみじめに感じたはずだ。李承晩はただちにアイゼンハワーにメッセージを送った。
 「貴下がここ(景武台。今の青瓦台)に来ないなら、私はすぐに国務委員を執務室に集めて直接声明を発表する。私は声明を通じて、米国大統領に当選した貴下が韓国を訪問して帰国する際、韓国の国家元首に別れの挨拶もせず去ったという事実を全世界に公表する」


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