米国の南韓占領政策の基本は、中国大陸の事態進展を観望しながら決定されていた。トルーマン大統領は1946年1月、ジョージ・マーシャル大将を特使として中国に派遣し、国共合作を促した。
マーシャルの努力で国民党と共産党は国共合作に合意し、北京で祝賀行事が開かれた。ところが、蒋介石が米国の助言を無視し内戦を再開すると、マーシャルは米国が中国問題に関与してはならないと結論を下した。つまり、中国を放棄するということだった。
結論的に、韓半島の運命はスターリンが1945年9月20日に出した北韓での単独政権樹立指令と、46年から47年までの国共内戦に決定的な影響を受けた。スターリンは45年9月のロンドンでの外相会談で、ソ連の要求が米英から拒否された後、毛沢東に八路軍30万人を満州に派遣するよう指示した。これによって国共内戦が再開される。
ソ連軍は1946年3月、満州から撤退。自分たちの占領地を八路軍に明け渡した。八路軍は4月に満州の四平街戦闘と長春戦闘で国府軍に勝利を収めた。蒋介石は報復のため米軍の支援で育成した新6軍を満州に派兵し、46年5月、八路軍相手に大勝を収めた。
国共内戦は米ソの代理戦争のような様相で展開された。八路軍の敗北後、スターリンは八路軍部隊を北韓地域に退却させた。
八路軍は北韓で負傷兵を治療し休憩を取りつつ、ソ連軍によって訓練・再編された。1946年から48年まで、北韓全域は八路軍の軍需物資と兵士の輸送路かつ補給廠になった。当時、中国共産党の東北局が平壌に設けた駐朝鮮事務所の幹部だった丁雪松の回顧録は、「東北地域の交通要路が遮断された状況で、朝鮮北部は南満洲と北満洲、山海関一帯を連結する重要通路だった。友邦のこの地理的条件を利用したのは、東北解放戦争において偉大な勝利をおさめるうえで絶対に必要だった」と記録している。
丁の回顧録によれば、八路軍は1946年6月、安東(今の丹東)と通化を放棄し、1万8000人の負傷者や家族、後方人員と戦略物資2万トンを北韓地域に移動させた。金日成はソ連の方針に基づいて負傷者を治療し、休息および再編を支援した。国府軍が瀋陽から長春に至る大都市と鉄道、交通要地を占領し、物資の供給を遮断すると、八路軍は北韓地域を通過する4つの交通路を利用して兵力と物資を満州に移動させた。
北韓を経由する補給路は、毛沢東が内戦を継続する上で決定的な存在だった。朝鮮人部隊を含む八路軍は47年、満州で国府軍の主力部隊に勝利し、その勢いで中国全域から国民党軍を追い出す。
国共内戦で北韓の戦略的価値に改めて注目したスターリンは、この大事な北韓が米国の影響下に入ってはならないと再認識した。
国共内戦で蒋介石の国民党の敗色が濃くなると、米国の南韓政策には新しい輪郭が浮かんできた。米予算局と陸軍省、国務省の高級官僚で構成された「韓国問題特別共同委員会」は1947年2月25日、南韓に独立政府を樹立しても共産化される可能性が大きいため、米国が南韓に経済援助を提供し、南韓経済の基礎を固めるべきとの報告書をまとめた。また、右翼勢力だけでは共産党を押さえられないので、民政長官・安在鴻と過渡立法議員議長・金奎植など穏健勢力を中心に、南韓経済が自立できる基盤を作らねばならないと指摘した。左右合作勢力を中心に穏健勢力を育て、経済の自立基盤を築くという提案だった。(続く)