在日の英雄 義士 元心昌5

義理の同志愛 1カ月に2度も朴烈と面会
日付: 2016年02月03日 01時43分

 韓日併合直後500人であった在日朝鮮人留学生の数は、1920年代中盤に入り4000人に迫った。その中で約3000人は日本の首都である東京で留学していた。日本当局は急激に増加する日本国内の朝鮮人留学生に対応して、彼らを対象に巧みな優待政策を取り始めた。日本と朝鮮を一つにまとめようとする内鮮融和運動であった。留学生を朝鮮の植民地統治に対する支持協力者、一言で親日反民族者に養成しようとした。
 1920~30年代日本当局に操られた代表的な親日団体として相愛会が挙げられる。元来、東京の南千住で「相救会(東京労働者同志会」という名の下、在日同胞労働者の親睦団体として出発したが、1921年12月に朴春琴と李起東らが改組し相愛会と改称した。設立目的から「人類相愛の精神に基づき日鮮融和の徹底的実現を期する」と明記した。
 相愛会は、日本当局から奨励金と補助金の支援を受け、留学生のためのさまざまな厚生福利施設を設置した。無料で運営する寄宿舎と職業紹介所、診療所、食堂、日用品販売所などを備えていた。1929年4月、500人収容規模の寄宿舎「相愛会館(コンクリート4階建て)」を建立した際、宮内庁(天皇の)金一封、内務大臣の奨励金、東京府と関東大震災善後会から各々3万円の寄付金、朝鮮総督府管轄の朝鮮銀行から4万円の低利の融資を受けたことが記録に残されている。敷地は本所区柳島町の1000坪の土地を無償で払下げを受けた。
 当時元心昌氏は、同じ留学生出身だったが、これに反旗を翻していた。無政府主義運動の指導的幹部として朝鮮人労働者の合宿所を回りながら、労働運動の力を糾合し、抗日闘争の同志たちを集めた。権力の力を背負ってますます勢力を拡大していった相愛会とはどうしても正面衝突するしかない状況だった。実際、無政府主義者らと相愛会の間には暴力を伴う衝突が絶えず起きていた。元氏と日本や中国で苦楽を共にした無政府主義同志の朴基成(活動家時代、仮名李守鉉)は生前に、統一日報(1971年9月15日付)で次のように証言した。
 「親日団体の相愛会は『鷄林莊』(東京中野区野方にいた朝鮮人学生の寄宿舎で、在日同胞の無政府主義らの拠点となっていた)に暴力団を投入し、一大騒動を起こした事件が発生した。その際、元心昌同志と一緒に寄居していた」
 このように相愛会は留学生たちと労働者たちを襲撃することをほしいままにした。その上に、賭博場の開設と賭博場の出入りの手数料騙取、人身売買など暴力団のような行動も躊躇しなかった。1927年に浜松で起きた在日朝鮮総同盟系の座り込み、1928年2月無政府主義系の襲撃事件の際には木刀と日本刀、拳銃まで持って同胞たちを害した。そうした無断違法的な行動をする相愛会のことを、日本の高官たちは「内鮮融合の精神を具体化したこの神聖な殿堂」とまで称賛したという。相愛会の中心人物である朴春琴は1932年衆議院の選挙(東京本所区)で立候補し当選までした。朝鮮人初の日本国会議員となった。
 日本当局の目には、強力な共産主義系とも武力衝突を辞さない無政府主義者たちは目の敵にされた。1923年9月3日関東大震災の際、無政府主義運動の先鋒に立っていた朴烈氏に天皇殺害未遂という疑いが掛けられた。死刑まで宣告したのは無政府主義系鎮圧のシグナルとして解釈された。しかし、無政府主義運動の気流は労働運動と相まって拡散され、権力の意図とは反対に活気を浴びていった。
 朴律來氏は10代のソウル留学生時代に元氏と出会い、抗日独立運動まで共にしたので、誰よりも元氏の品性をよく知っている人物だ。朴氏は1971年9月22日統一日報で元氏との縁と人物評価をした。
 「私が培材中学校、元同志が中東学校に通っていた頃、友達の紹介で知り合った。勉学の必要性を痛感した28人の友と共に日本に渡った。みんなバラバラになったが、元同志と私は日本大学の社会科に同伴入学した。当時、元同志が最も尊敬し思想的・政治的に大きな影響を受けていた人はソウル出身の金正根氏だった。金氏は小柄に似合わず大胆で冷静で、人格的にも理論的にも朝鮮人アナーキストの中で第一人者だった。金氏は後に朝鮮総督府の要員暗殺を目的にした、いわゆる『大邱事件』で、日本人同志の無政府主義者・栗原一夫と共に大邱刑務所に収監された。そこで、看守の非道に抗議し殴られ、32歳で生涯を終えた。金氏から受けた影響は、その後元心昌同志が黒友会(黒友連盟の前身)あるいは東興労組で在日朝鮮人無政府主義の指導的幹部として積極的に抗日闘争を展開する上の基盤になったことは否定できないと考える。《中略》元同志のことを語る際、彼の深い同志愛を言わざるを得ない。今でも思い出させるのは朴烈氏に対する獄中の面会だ。当時、多くの人は日本当局の監視を恐れて面会することは思いもしなかった。私と李弘根同志もよく行った方だが、2カ月に1回程度だった。しかし、元同志は1カ月に2回も差し入れを持って面会を行った。時代の雰囲気を知っていればそれがどれだけ勇気のある、誠意のあることだったのか知るはずだ」
 一方、元氏は相愛会館が完工される1929年4月に発生した「東京留学生学友会事件」で暴力行為に加わった者として警察に逮捕されてしまった。
       (つづく)


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