米ソ共同委員会は1946年5月7日に決裂し、無期休会になった。南韓の政局は混乱に陥った。米国は米ソ共同委の決裂後も左右合作を模索した。
李承晩の執拗で強力な反信託統治運動は非左翼国民を団結させ、解放後の南韓の政治風土を左翼から右翼優勢に逆転させた。李承晩は韓民族の独立意志を国際社会に明示し、米国にモスクワ協定を破棄させて国連を通じた韓国問題の解決を模索させる契機を作った。結論的に、李承晩の反信託統治運動は、韓民族が強大国の信託統治、特にソ連の衛星国に転落することを防ぐ要因になった。
北韓に共産政府が樹立された状況で、南韓で左右合作が成立すれば、韓半島全体の共産化は時間の問題だと看破した李承晩は、難局打開の勝負に出た。「独促国民会議」の活動を督励するため地方訪問に出た李承晩は6月3日、全北・井邑で韓国の自由民主主義勢力の路線に関する有名な発言をする。
「無期休会になった米ソ共同委が再開される気配も見えず、統一政府への望みを期待し難いから、南韓だけでも、臨時政府あるいは委員会のようなものを組織して38度線以北からソ連が撤退するよう、世界の公論に訴えなければならない」
韓国の多くの政治勢力とマスコミは、南韓に自由民主国家建設を訴えた李承晩の発言を、分断を招く「単政論」と激しく批判した。米軍政も米国の政策とは違うと批判した。だが、彼らは北韓に樹立された共産政府―人民委員会とその急進的共産化政策は批判しなかった。
朴憲永は1946年7月、左翼勢力が信託統治に賛成したため勢いを失うと、金日成と一緒に秘密裏にモスクワを訪問。ソ連当局から左翼政党の統合と暴力闘争を展開せよという「新戦術」指令を受けてきた。同時期に、共産党が朝鮮銀行券を偽造してきた事実も明らかになる。米軍政によって共産党が非合法化される決定的な事由になる「精版社偽造紙幣事件」だ。事件の裁判過程で、共産党が1945年10月から朝鮮銀行券100円券の原版を使って偽造紙幣を大量に印刷し、党の活動資金に使ってきたことが明らかになった。
ソ連の指示を受けた朴憲永は46年7月28日、党員に配布した「新戦術に対する指示書」で、米国を反動的と規定し「反米闘争を積極的に展開すること」を指示。米軍政に対し、左翼系列が作った「人民委員会」に権力を渡すよう要求し、暴力闘争に乗り出した。
朝鮮銀行券の原版が共産党の手に入った事情をたどると、日本の敗戦後の混乱と朝鮮銀行の解体過程、そしてソ連が占領地でどのような政策を追求したかが浮かんでくる。朝鮮銀行券は、韓半島と満州、中国など占領地で広く通用していた。日本の敗戦で中国にあった朝鮮銀行の支店は重慶の銀行に、関東州と北韓の支店はソ連軍と人民委員会に接収された。ソ連軍は占領地で「赤札」とよばれたソ連軍票を無制限に発行した。
ソウルの朝鮮銀行本店は敗戦後の膨大な資金需要に対応して大々的に通貨を増発した。1945年9月10日、朝鮮銀行本店を接収した米軍は、朝鮮銀行券は継続して通用すると布告した。中国などにいた朝鮮人行員は、米国が特別に準備した船でいち早く帰国し、南韓の各支店に配置された。
南韓は解放から約2年半で物価が20倍以上になるが、この途方もないインフレは通貨増発とソ連の占領政策や通貨戦争が決定的な要因となった。(つづく)