在日の英雄 義士 元心昌3

最大の当面課題は「救国」と「生民」
日付: 2016年01月20日 13時02分

 1919年韓半島全域で決起された3・1運動は、元心昌氏の人生行路を独立運動家に変えた転換点であった。これをきっかけに京畿南部地方の農村に住んでいた13歳の少年は無学を悟り決心した。支配者の日本に勝つためには、農機具をもって対抗することでは不可抗力という冷厳な現実も悟った。
 己未年に起きたことにより、「己未独立万歳運動」とも呼ばれる3・1運動は、元氏にどのような影響を及ぼしたのだろうか。
 彼は3・1精神を「先烈が我が民族の自由と独立のために祖国の江山に鮮血を流して具現したもの」と述べ、「真の愛国者は、祖国を統一して民族を平和と幸福に導くために休みなく戦う人々」と定義した。
 元氏は「統一日報」(当時朝鮮新聞)1959年3月1日付「3・1精神と平和統一運動―先烈の遺志を継承する道」というコラムで分断された祖国の現実を打開するために統一運動をすることが、3・1精神を継承する道だと主張した。
 そして3・1精神を3つにまとめて説明した。
 1つ目は、圧制打倒の精神。彼は「志のあるレジスタンス精神」と説いた。運動の根底に圧制打倒の精神があったから、途方もない犠牲に耐えながらも「厳然な独立万歳を叫ぶことができた」と診断した。元氏が整理した3・1運動の記録は、全国211カ所の地域、1541村で200万人以上が参加し、警察により7509人が犠牲になり、1万5961人の負傷者を出した。
 2つ目は、民族自決の精神。3・1運動は1918年11月米国のウッドロウ・ウィルソン大統領がパリ講和会議に参加して提唱した「民族自決の原則」を基盤にしている。当時パリ講和会議は、連合国が第1次世界大戦終戦による敗戦国ドイツの賠償など戦後処理問題を論議する席だった。
 米国側首席代表として参加したウィルソン大統領は、戦争の原因を根本的に除去しようとすれば強者のための世界秩序、いわゆる勢力均衡論よりは民族自決の原則によって国境線を再調整することが必要であると主唱した。
 当時としては、破格的な提案で英国とフランスの強い反対があったが結果的に相当部分が受容された。これを通じて1919年6月28日戦勝連合国間のベルサイユ講和条約を通じてドイツに服属されたポーランドやチェコが独立し、人類歴史上最初に恒久的平和を目的にした国際協力機構「国際連盟」が創立された。
 3・1運動は植民地国家で行われた大々的な独立運動として世界史的意義を付与することができる。全人口の10%を超える200万人以上が参加した独立闘争は世界史でも類例を探すことができない。元氏は「子孫万代に教え民族自存の正当な権利を永久に保有させる」と述べ、3・1運動宣言書の文言を引用して先烈の遺志を尊ぶことを強調した。
 3つ目は、平和愛護の精神。その根拠として3・1運動宣言書の「決して旧怨や一時的感情によって他を嫉逐排斥するものではない」と述べ、「真正な友好的新局面を打開しよう」という文言を挙げた。彼は、先烈は敵である異民族圧制者に対しても寛容、平和愛護の姿勢を明らかにし、ましてや同族同士が反目することはあってはならないことだと訴えた。
 元氏は3・1精神を「圧制打倒」、「民族自決」、「平和愛護」の3つにまとめ、1959年当時の韓民族が当面した最大の課題は、国を救う「救国」と民を生かす「生民」と結論づけた。     
       (つづく)


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