大韓民国の建国史(14)

ソ連の韓半島赤化戦略に抵抗した民族陣営
日付: 2016年01月14日 10時17分

 南韓で信託統治反対示威が燃え盛っていたのと同じころ、平壌では1946年2月8日、「北朝鮮臨時人民委員会」が発足した。翌日、委員長に金日成、副委員長・金科奉、書記長・康良煜など23人の名簿が発表された。人民委員会は行政と立法権限を持つ独裁的機関で、「臨時人民委員会は我々の政府」と宣言した。スターリンの秘密指令によってできた単独政府が姿を現したのだ。
 当初は「臨時」ではなく、正式な人民委員会を作るはずだったが、「共産主義者が祖国の分断を永続化する」という南韓からの攻撃をかわすため、ソ連占領軍の指示で「臨時」という修飾語をつけた。彼らは1年後の1947年2月21日、ついに「臨時」を外して北朝鮮単独政府である「人民委員会」に変わる。
 北韓では「臨時人民委員会」発足と同時に政府樹立が電光石火のように進められた。臨時人民委員会は10部署からなる政府組織と公安機関らを設置(2月10日)し、「民主改革」という美名の下、無償没収・無償分配方式の土地改革を実施(3月5日)した。中央銀行を設立し貨幣を発行(7月1日)、主要産業の国有化措置(8月10日)などを断行して共産化を強行した。1946年末には北韓の工業施設の90%以上が国有化され、北韓は社会主義的計画経済体制へと変貌した。
 1946年3月6日に採択された「北朝鮮臨時人民委員会の構成に関する規定」で北韓が設定した最大の任務は「ソ連司令部のすべての決定を実践すること」と明記されている。自らがソ連の傀儡政権であることを認めたのだ。
 ソ連占領軍の指導の下で推進された強引な社会主義化の結果、土地や企業など全財産を奪われた地主や資本家、親日派の烙印を押された人々、クリスチャンや共産化の妨げになる知識人は弾圧を避けて38度線の南に逃れた。全財産を捨て南韓へきた人々は1948年までに約100万人、これは北韓の全人口の10%に該当する。韓半島の歴史上、自由を選択した最初の”民族大移動”だった。
 北韓でソ連の傀儡政権樹立が始まったとき、南韓では信託統治反対運動が非左翼系の国民を団結させ、政治風土は右翼に転じた。絶対多数の韓国人は信託統治反対を叫ぶ右翼を支持し、右翼を「民族陣営」と呼んだ。民族陣営には金九の「信託統治反対国民総動員委員会」と李承晩の「独立促成中央協議会」があり、両者は46年2月8日「大韓独立促成国民会議」に統合した。
 北韓に共産政権が樹立されてから3週間が経った1946年2月28日、米国務省はマッカーサー将軍に「信託統治案に激しく反対する李承晩と金九グループを排除し、ソ連に操縦されるグループとも繋がらず、韓国のために進歩的綱領を推進できる指導者を見つけて勢力化せよ」という訓令を送った。訓令は、「金九と李承晩グループにいかなる好意も示してはならない。進歩的指導者グループを発見することが不可能なら、金九が前述したような進歩的綱領を採択して実行するよう圧力をかけるための強力な努力が必要だ」と言及した。南韓政界から李承晩を除去せよと指示したのだ。
 李承晩が信託統治に決死の思いで反対したのは、韓半島全体にソ連の影響力が増す恐れがあったからだ。李承晩は、共産主義の芽を徹底に摘まなければ韓国はソ連の手中に落ちると直感していた。そのため共産主義者との連立や合作を拒否し、一貫して反共、反信託統治の道を歩んだのだ。(つづく)


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