在日の英雄 義士 元心昌

「義士」追称された唯一の在日韓国人
日付: 2016年01月01日 00時00分

 「英雄的な愛国者」。生まれながらにしてこう呼ばれる人物はいまい。これだけ努力すればいいといった基準もない。その人の人物像を他人がどう見るかによって形作られるものだ。
 人間像とは、ある人が追求した人生の軌跡と価値に対して第3者が下した評価である。在日韓国人の中で「英雄的な愛国者」に最も近い人物として挙げられるのが、元心昌氏(1906~1971)だ。
 元心昌氏は死後、抗日独立運動家と在日韓国人社会各界の指導者らで構成された葬儀委員会から「義士」の呼称を送られた。葬儀は、本国の「国民葬」に該当する「在日本韓国人社会葬」で行われた。
 「国民葬」と「社会葬」は、故人が社会に残した偉大な功績を称え、歴史に長く残すために行われる葬儀という点で共通している。故人と信念や行動が異なる人も集まって行われる。同じ信念の者同士で行う「同志葬」と区別される点だ。
 在日同胞としては唯一「義士」の称号を贈られ社会葬まで行われた元心昌氏。しかし今日、彼がどのような人物なのかを知る人はさほど多くない。65年の生涯のほとんどを日本で過ごし、植民地時代は主流(民族主義や社会主義)ではない無政府主義で抗日独立運動を行い、民団と朝鮮総連の明らかな反対を押し切って平和統一運動を展開したため、などといわれる。
 いかなる理由にせよ、元心昌氏はその業績の大きさに比べ、国内での関連事業もしっかり行われておらず、研究の対象になることもまれな状況だ。今やその死から40年以上の時がすぎ、歴史に埋もれた無名の人士とされることもある。
 だが、元心昌氏の行跡を年代別にたどると、彼がどれほど過小評価されてきたかがわかる。生前の仲間の証言や元自身の論文、日本当局の裁判記録などによると、元氏は民族史に刻まれるべき活動を実践した人物だった。
 中でも特筆すべき業績を挙げるとすれば、大きく4つある。まずは植民地時代の「3大海外独立運動」に選ばれる「上海六三亭義挙」(1933年3月17日)だ。第2に、新朝鮮建設同盟(1946年1月20日)と在日本朝鮮居留民団(現・在日本大韓民国民団。同10月3日)の創設、第3は、国内外を通じて初の平和統一運動団体となった統協(祖国平和統一促進全国協議会。1954年末)の創設、第4に統一日報の創刊(1959年1月1日)だ。
 元心昌氏の前半生は、祖国の独立を勝ち取るための抗日闘争家として、後半生は分断した祖国の現実を打開すべく、理論と実践を兼ね備えた統一運動家として身を捧げた生涯だった。人生のすべてを国と民族の発展と幸福のため、不安定な状況を打開するための方策を見つけることに専念したといっても過言ではない。
 アナーキスト独立運動家と熱烈な統一運動家。一見異なる違う性格の活動に見えるが、実際はそうではない。元心昌氏は1945年の解放直後に始まった南北を分かつ分断が、韓民族にとって新たな難局であり、真の意味での独立ではないと確信していた。特に分断過程で民族的な主体性が欠けていたことが、真の統一ができていない原因だと分析した。
 「統一事業において八・一五解放の二の舞をしないために、統一事業の民族的主体を確立させなければならず、そうするためには、まずもって統一運動を昂揚して、少くともわれわれの統一運動が統一運動をめぐる内外の情勢を導く段階にまでもって行かなければならない。(中略)われわれの統一運動における主体性とは何か。それはまず、われわれの統一運動をわれわれの手で成遂げるという自覚であり、われわれの統一運動をわれわれ自らの手で推進するという覚悟である」(1959年6月11日、朝鮮新聞。〈現・統一日報〉の元心昌コラム)
 1955年から大衆運動として本格的に始まった統一運動であったが、在日同胞の二大組織である民団と朝鮮総連からは徹底的に冷遇された。元心昌氏は民団中央団長まで務めたが、その民団でさえ露骨に彼の統一運動に反対した。その理由は、韓国政府の施策に反する行動と見なされたためだった。
 当時の李承晩政権は、北進統一路線を明らかにしていた。そのため「平和」統一運動を容認していなかった。朝鮮総連も統協が主管する集会を妨害するなど、組織的な反対活動を展開していた。
 このような状況でも、元心昌氏は意志を曲げなかった。彼の死後、1971年7月21日に発表された「元心昌先生の青年時代の闘争」という文に、彼の性格を垣間見ることができる。
 「先生は『たった一人でもなお信ずる道を行く』という、強烈な自主自立の精神と、身を投げつけて行動にあたる厳しい戦闘精神によってふちどられている。その中軸を貫くものは、圧制と抑圧を一切許さない激しい抵抗精神と火のような抗拒精神の伝統によって、近代史を構成するわが民族への深い愛情、そして民族の解放あってこそ、そのみずからの人生が成立するという固い信念であった」(つづく)


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