米軍司令官であるマッカーサーも38度線を越えて攻撃する意向があることを表明したことがあり、トルーマンも7月17日、国家安全保障会議で「国連軍が38度線に到達した場合、どうすべきかについて研究せよ」と指示している。
1950年8月に釜山防衛線を死守するのに成功した国連軍は9月15日、マッカーサーの大戦略による仁川上陸作戦に勝利したことで、韓国戦争の戦況を大逆転させる。ただでさえ南韓深くまで進撃した北韓人民軍は、補給路があまりにも長すぎて作戦に困難が生じる状況だった。仁川上陸作戦が成功したことにより、人民軍の補給路は完全に遮断されてしまった。これは作戦上の大成功だった。全羅道地方を掌握していた人民軍は、山に入ってパルチザンになるしかなく、大邱まで進出した人民軍は壊滅状況に置かれた。
韓国軍は9月28日、ソウルを奪還し北進攻撃を開始した。韓国軍は間もなく38度線に到達し、韓国戦争は再び岐路に立った。38度線を回復するのが国連が公式に宣言した戦争目標になるのか、38度線以北へ戦争を拡大すべきかは、すでに純粋な軍事的考慮を超える問題になっていた。この瞬間、李承晩が発揮した機知は単純に戦時外交の性格を超え、戦争指導、軍事指導者としての李承晩の力量を物語る契機となる。
38度線突破はすでに李承晩の外交業務のリストにあった。米国が参戦するやいなや、李承晩は待っていたかのように38度線廃止論や無用論を主張。李承晩は、38度線が韓国軍と国連軍の北進を阻害する要因になるかもしれないと思ったためだ。李承晩は敗退中の7月19日、トルーマンに手紙を送って38度線突破の当為を披瀝した。李承晩は「ソ連の後援で樹立された北韓政権が武力で38度線を破壊し南侵した以上、38度線がこれ以上存続する理由はもはや完全になくなった。戦争前の状態に戻るということは到底ありえない」と主張し、38度線突破の正当性を強調した。
トルーマンは1950年9月1日の政策演説で、韓国は、彼らが望むとおり自由で独立して統一する権利を有していると述べたが、これは李承晩の外交努力によるものといえるだろう。李承晩は、仁川上陸作戦が成功した後の9月20日に開かれた、仁川上陸作戦を祝う大会で再び38度線が無意味になったと主張した。
「今、世界各国の人々が38度線についていろいろ話しているが、これは全て台無しになるのだろう。われわれは38度線に到達しても停止するはずもなく、また停止するわけにもいかない。これから(38度線)以北の共産輩を全部掃討し、38度線を鴨緑江、豆満江まで押し返して鉄のカーテンを打ち砕くのだ」
李承晩の一貫した38度線無視の主張は、戦闘が展開される戦場での論理にも影響せざるをえなかった。米国も結局、「ソ連や中共が北韓へ彼らの軍隊を投入しないか、またそうする意図を発表しないなら」という条件で、「国連軍司令官にそういう作戦(38度線突破)を実施するよう認可すべき」と表明した。米国と国連の38度線突破は条件付きの承認だった。
李承晩は9月29日、ソウル奪還を記念するため中央庁で行われたソウル環都式の後、マッカーサーに「遅滞なく北進しなければならない」と述べた。マッカーサーは、「国連は38度線突破の権限を付与していない」と反対の意思を表明。すると李承晩は「国連がこの問題を決定するまで将軍は麾下の部隊と待つことができますが、国軍が北進するのを止められる人は誰もいないではありませんか。ここは彼らの国であり、私が命令を下さなくてもわが軍は北進します」と述べた。
李承晩は、このような明快な論理とぎりぎりの戦術で、マッカーサーに迫り、説得もした。李承晩は9月29日午後、陸軍本部に寄って丁一権以下の参謀将軍に38度線が存在するのかを尋ねた。全員が38度線の存在を認めないと答え、大統領は大喜びで丁一権に北進命令を下した。
翌9月30日、釜山の大統領官邸に将軍たちを呼んだ李承晩は「昨夜、38度線に達した部隊はどの部隊か」と質問し、その部隊を表彰せよと命じた。そして突然、李承晩は「ところで、丁総長、丁総長はどちらなのか、米軍の方なのか」と質問した。