常識と謙譲が尊重される韓国社会がみたい

日付: 2015年12月02日 09時48分

 韓国社会の非常識ぶりが限界を超えた。慨嘆に耐えないほどに。1年が暮れようとしている今、ここ1カ月間を振り返るだけで、韓国社会で生きることがいかに大変なことかという気になる。
 セウォル号事件の特別調査委員会の放縦ぶりや、教科書国定化反対を名分にした騒ぎ、民労総が主導した光化門暴動と曹渓寺へ逃げた暴力デモの主導犯などを見ながら、常識と謙譲が尊重される社会を切望する。
 大韓民国もISのテロ攻撃の対象になっていても、国会はテロ防止法の制定を放棄している。北側が潜水艦発射ミサイル実験をしても、政府は非武装地帯内の平和公園建設や金剛山観光を夢想する。死亡した元大統領に対する偶像化を見ても、常識と謙譲が尊重される社会を切望する。
 すでに大法院の判決まで出たセウォル号事件について、特調委は何を望むのか。まだ作成が始まってもいない教科書を「親日と独裁を美化」する内容と攻撃する政治家がいる。彼は有力な大統領候補だそうだ。その事実が、われわれをさらに絶望させる。
 民労総委員長が曹渓寺に逃げ込んだ。曹渓寺は治外法権地帯なのか。正当な公権力を攻撃した暴力に安全な避難所を提供する社会は、秩序と安全が期待できない社会だ。
 大韓民国がパリを血で染めたISのテロ攻撃の対象になっていることが明らかになったのに、テロ防止法を制定しない国会は何のために立法権を持っているか。国会は首都の中心部を無法地帯にする暴力デモを処罰するための法律を作ろうとしない。いや、むしろ暴力を庇護する国会議員が多い。
 唯一の立法権を持つ国会は堕落した。ただ堕落しただけならまだましだが、国会は独裁をふるう。それもただの独裁ではなく、暴力集団と野合して国民の情緒を支配しようとしている。
 金泳三元大統領の死去が伝えられると、メディアは金泳三を「民主化の英雄」と持ち上げた。元大統領とはいえ、自然死した人物をここまで大騒ぎで追悼する必要があるのか。元大統領の死は、他の個人の死と特別に違うのか。彼が残した何が偉大というのか。国民に悲しみと弔意を強要する権利と権限は、誰に与えられているのか。
 死者に対する韓国人のいきすぎた同情と寛大さは問題だが、大韓民国の基礎を築いた偉大な大統領を攻撃することに多くのエネルギーを費やした大統領を偉大と宣伝することに、メディアが狂奔しているように見える。これは、国民の精神と情緒への暴力といえよう。
 ここ10年あまり、元大統領が亡くなるたびに繰り返されるこの奇妙な現象は、ある大統領への妄信的な支持集団への恐れに起因する。彼らは支持する大統領に対する追悼を拒否するか、消極的な国民に「政治的攻撃や罵倒」を加える。これを恐れてメディアは誇張を繰り返す。
 過去の権威主義政権は、国民の感性まで支配しようとしなかった。ところが、いわゆる「民主化勢力」は、国民の価値観や感情までを支配しようとする。自分たちを永遠に偉大な存在として崇めするよう強要する。
 国家葬という概念に抵抗感を感じるのはなぜだろうか。なぜ全国民に哀悼の意を強要するか。金泳三は「自分が大統領になることが民主化」と言い放った傲慢な人物だった。大統領まで務めた人が、さらに何を望むのか。
 韓国人は謙譲と遠慮を知らないのか。今回も国家葬が必要だったのか疑問だ。常識と謙譲を尊重しなければならない。生きている社会で常識と謙譲が尊重されず、死者にのみ寛大なのは、偽善にすぎない。そのほとんどは無知と憎悪から来るし、その同調勢力は日本国内にもいる。朝総連と韓統連がその代表だ。この正常化を政府と社会に期待するのは高望みだろうか。


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