1945年が終わりに近づくにつれ、カイロとヤルタで議論された韓半島の信託統治問題は、半島に暗い影を落とした。占領後数週間が経ち、南韓にいた米軍事・外交官吏らは、信託統治は不適当かつ非現実的と主張した。だが、米政府にほかの選択肢はなかった。
信託統治を創案した当事者のラングドンは1945年10月、ホッジ将軍の政治顧問代理として韓国に赴任した。彼は赴任後に政局を観察し、バーンズ国務長官に「信託統治をここに適用するのは不可能であり、道徳的・現実的に妥当といえず、われわれはその案を廃棄すべきだ」と報告した。自分が提案した信託統治案を、捨てるべきと建議したのだ。
ラングドンを含む米軍政庁の幹部たちは、韓半島に新しい統治委員会を作り、この委員会に徐々に行政機能を移管し、それを事実上の政府にする政策を構想した。
モスクワで米英ソ3国外相会議が始まった12月16日、米軍政長官のホッジは東京のマッカーサーに「信託統治が強制されれば、韓国民は物理的な暴動を起こす可能性がある」と報告した。この報告内容は、モスクワにいたバーンズにも伝えられたが、米国は韓半島の信託統治を決定。統治委員会構成案は白紙になった。
米英ソ外相会議では、「韓国の各階層が参加する民主的臨時政府を樹立し、この政府と協議して米英中ソの4国が最大5年間の信託統治を実施し、これを推進するため、米ソ共同委員会を設置する」と決まった。外信が信託統治案を伝えた12月28日、南韓全域で信託統治反対運動が爆発した。翌日の29日、京橋荘で開かれた各政党社会団体代表大会で金九は「わが民族が全部死んでも信託統治は受け入れられず、血を流してでも自主独立政府を我々の手で建てるべき」と悲壮な宣言を行った。
この会議で、李承晩と金九を中心に信託統治反対国民総動員委員会が結成され、全国的な大規模集会とデモは12月31日にピークに達した。ソウルのすべての商店街が閉まり、飲食店や劇場、ダンスホールも休業した。米軍政庁機関で働いていた韓国人は集団で辞表を提出した。金九は信託統治運動を「新しい独立運動」と規定し、一種のクーデターを起こして米軍政の警務部と首都庁を占領しようとする動きを見せた。
12月30日未明に宋鎮禹が暗殺された。宋鎮禹は信託統治に反対していたが、ホッジの粘り強い説明と説得で一定期間の信託統治を認める方向に変わった。宋は「反逆者」とみなされ、国粋主義者に暗殺された。李承晩は「貴重な人材を失った」としばらく泣いたという。
当初は信託統治に反対していた左翼勢力は1946年1月2日、態度を一変させ、「モスクワ協定支持」を宣言した。朴憲永は密かに38度線を越え、12月29日に平壌に到着。12月31日、モスクワから戻ってきた北韓駐屯ソ連軍民政司令官のロマネンコからモスクワ協定支持(信託統治賛成)を指示された。その後ソウルに戻り、信託統治支持を指令したのだ。
左翼が準備した1月3日の信託統治反対デモは、信託統治賛成に変わった。しかし、民心が信託統治反対にまとまると、左翼政派は「信託統治支持」のスローガンを「3相会議の決定支持」に変え、信託統治という用語の代わりに「後見」を持ち出し、用語混乱戦術を駆使した。(続く)