朴正熙は満州軍第8団長の副官だった。満州軍少尉として1944年7月、当時の満州にあった熱河省興隆県半壁山の歩兵8団本部に赴任した朴正熙は、日本の敗戦直前の7月1日付で中尉に進級した。毛沢東の八路軍討伐が主任務だった8団は、8月9日のソ連参戦によって万里の長城の北に分散していた団兵力約4000人を興隆に集結させ、内モンゴルの多倫へ進撃するよう命令された。
半壁山と興隆は約60キロの距離だが、険しい山岳で車も通れず、部隊はロバと徒歩で暴雨の中を行軍した。一行は興隆に着いた頃、無線機で蒋介石の肉声放送を聞き、日本の降伏を知った。
蒋介石は「東北地方では、朝鮮人たちがわれわれよりもっとひどい圧制を受けた。朝鮮人の中には日本人にへつらって悪いことをした者もいるが、一切の報復行為を禁ずる。東北弁事処を組織し王将軍(中国軍所属の金弘壹)を派遣することにしたので、自重慈愛するよう」との要旨で諭した。
8団の朝鮮人将校4人(申鉉俊、方圓哲、李周一、朴正熙)は、日本人将校13人とともに武装解除された。申鉉俊、李周一、朴正熙は8団と別れて汽車で9月21日頃北京に到着した。
3人は大韓民国臨時政府傘下の「光復軍第3支隊駐平津大隊」に編入された。大隊長は申鉉俊・前満州軍上尉、1中隊長に李周一・同中尉、2中隊長に朴正熙・同中尉、3中隊長に尹瑛九・同少尉、政訓官に鄭弼善、軍医官に厳在玩が任命された。故国への帰還を待つ200人の部隊員を食べさせるのが指揮官たちの仕事だった。
朝鮮併合から7年後に生まれ、教師という安定した職を捨てて軍人の道に進んだ朴正熙は、この決定的な瞬間、歴史の激流の中に投げ込まれた無力な存在だった。日本の圧制に反発してきた彼だが、日本人将校と同様に階級まで剥奪された。追う側だった朴正熙は、追われることになった。
植民地から解放された瞬間、喜びより憂慮が胸をよぎった朴正熙は、国力のない国民は惨めになることを痛感する。この矛盾と困惑と葛藤の体験が、朴正熙を「自主人」に変える原動力になる。
一方、ハバロフスク北東約70キロのアムール川沿い、ブヤツクにあった第88特別狙撃旅団本部で光復を迎えたソ連軍大尉金日成は、満州軍中尉朴正熙とは立場が逆転した。金日成は錦衣行を夢見るようになった。
漢方医だった父と満州に移住した金日成は、中国人学校で学び、19歳で中国共産党に入った。
中国共産党が指導した東北抗日連軍(部隊長・周保中)の中隊長級になった金日成は、日本軍と満州軍に追われて1940年の秋、ソ連に逃避した。ソ連極東軍はこの中国人・朝鮮人混成部隊を88旅団という諜報部隊に再編した。ソ連軍は、朝鮮語も下手な33歳の大尉を神話の中の金日成将軍に仕立て、平壌に連れていった。
金日成は祖国を離れて20年あまり、中国とソ連共産主義者たちの部下だった。彼は事実上、中国化された朝鮮人だった。金日成・金正日集団の心理的特性になった馬賊団的意識、つまり北韓を占領地、同胞を鹵獲物と考え、自分たちの贅沢ぶりに良心の呵責を覚えないのは、外勢に所属し外勢に操られた満州での経験によるところが大きい。
朴正熙と金日成は、ともに満州を経験し、ほぼ同じ時期に祖国に戻り、15年後に対決する。2人が満州をどう経験したのかが、その後の韓半島の運命に少なからぬ影響を及ぼすようになる。(続く)