李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領 第1部 -21-

最後の銃弾は、われわれのため
日付: 2015年11月05日 11時48分

 大田に避難した李承晩はその日の夜、寝床につく前にモーゼル拳銃を枕の下に置いた。戦争が始まってから、初めて床につく日だった。このとき、大統領が銃を枕の下に入れるのを秘書が見た。秘書は「閣下、それは何ですか」と尋ねた。大統領は「ああ、君は見たのか。拳銃だよ」「私がさきほど誰かに頼んで一丁持って来い、と言ったんだ。いざというときは、私も1人、2人くらいは倒せるのではないか。最後の銃弾はわれわれのためのものだが」李承晩はこの日から3年間、拳銃を枕元のシーツの下に隠して床についた。戦時大統領の死生観が分かるエピソードだ。
 李承晩は6月27日の夕方から大田で戦争を指揮した後、7月1日、釜山に移動した。このような凄絶な状況で国を導いた経験をした指導者が、世界史に何人いるだろうか。韓国戦争は、北韓共産軍がソ連と中国の積極支援を受けて起こした、国際共産主義拡張のための侵略戦争だった。大韓民国はそれに立ち向かって、「6・25の歌」の歌詞のように、まさに「素手で、赤い血で」敵と戦った。6・25韓国戦争は3年1カ月2日間続いた、人命被害から見れば、世界の7大戦争に含まれる戦いだった。
 国家と自分の命まで危うい状況に置いて戦争を導いた李承晩は、ついに大韓民国を守り抜くことに成功した。大韓民国を建国し、2年も経たないうちに大韓民国を消滅させんとする敵国の侵略を受け、3年以上戦争をし、その戦争で国を救った指導者ははたしてその後、国に対してどのような考えを持つようになるだろうか。李承晩が戦争中に示した行動のうち、一部に非民主的な側面があったのは事実だが、戦争中の指導者が避難先の臨時首都である釜山で国会を開いた事実を見れば、李承晩がやはり民主主義に徹した指導者だったことは否めないはずだ。
 戦争中、韓国軍は本当に勇敢だった。フランスの記者は当時、「米軍の物資、英国軍の謹厳さ、韓国軍の勇敢さを見て、この戦争は大韓民国の勝利で終わるだろうと予測した」と回顧している。韓国軍が勇猛だった事実は、軍統帥権者への忠誠心によるところが非常に大きかったはずだ。新生大韓民国の国民は李承晩を信じ、彼の指導の下で戦争の苦難に耐えたのだ。
 李承晩の努力、そして国際政治的危機に対応するトルーマンの決定で、米国は比較的迅速に韓国戦争への参戦決定を下した。戦争勃発からわずか5日後の6月30日、米国は韓国戦争に米国地上軍を参戦させることを決定した。
 米国軍が韓国戦争に参戦を決めた日、大韓民国は死の淵から蘇ったも同然になった。米国の女性国際政治学者のタニシャ・パジャル教授が著した『国家の死』という本がある。近代国際体制が形成された1816年から2000年までに、国際体制で存在した国々がどのように死滅したのかに関する優れた研究だ。パジャル教授は、同期間中に国際体制で存在した国の数は207カ国だったが、そのうち32%に相当する66カ国がさまざまな理由で滅亡したことを突き止めた。滅亡した66カ国のうち75%にあたる50カ国は、隣国によって滅ぼされていた事実も発見した。国際政治の世界がいかに残酷であるかを証明する本だ。
 1910年、李氏朝鮮も隣国の暴力によって滅びた国に含まれる。もし1950年7月1日、米国が韓国を助けに来なかったら、パジャル教授のリストに、隣国の攻撃で滅んだ国が一国追加されたのは確実だ。歴史に「イフ」はないというが、もしそのとき大韓民国が滅亡していたら、今われわれはどうなっていただろうか。
 米国をよく思わず、事実上反米主義の立場を堅持した盧武鉉大統領も2003年5月、米国を訪問した際、「韓国戦争のとき、米国が韓国を救うために来なかったら、私はこの場にいることができなかっただろう」と述べた。
 韓国戦争に米軍が介入した後、両国軍は緊密な合意の下で作戦を行う必要があった。韓米両軍は1950年7月1日、連合作戦を遂行するための主要な合意を交わした。この日の合意内容は、韓国軍は可能な限り漢江戦線を防御する、韓国軍は京釜国道沿いで敵を阻止しながら米24師団の進出を援護する、などといったものだった。


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