韓半島は35年間の植民地時代を 経て、完全に日本経済の一部に編 入された。農業中心の伝統的な経 済・社会構造も変わり、日本が敗 戦する頃は、人口数では農業従事 者が多かったものの、工業生産が 農業生産を凌駕するようになって いた。 北韓地域では、戦争遂行に必要 な化学、電力、鉱業、金属産業な どが興っていた。南韓も紡織、食 料品、機械工業などが成長してい た。 しかし、敗戦によって韓半島に 住んでいた日本人の経営者と技術 者が引き揚げると、設備と原材料 のほとんどを日本から調達してき た工場の稼働率は落ちた。失業者 は急増。極度の生活必需品不足に 陥った。電力、石炭、化学、金属、 窯業などを北韓地域に依存してき た南韓の経済的混乱は深刻だっ た。 通貨量の膨張も経済混乱の重要 な要因だった。総督府は延滞した 債務返済、日本人の引き揚げ資金 を支援するため、莫大な量の朝鮮 銀行券を発行した。米軍政も米穀、 麦などの買い上げのため通貨を増 発した。1944年末億700 0万円だった朝鮮銀行の通貨発行 高は、年末には約億円、年 末には172億円に膨張した。 米国の大々的な援助と支援なし では南韓の経済的安定は望めなか った。救援物資的性格の「占領地 域行政救済資金」 (GARIOA。 占領地域住民の食糧不足と栄養失 調 、病気などに対する緊急救護の 食料、衣類、医薬品などの供給) や「占領地域経済復興資金」(E ROA。占領地域の経済復興のた めの原材料の供給)などが援助や 借款形式で行われた。南韓が独立 するまで3年間、これらの援助規 模は5億㌦に達した。 米軍政庁は年月、布告令第 1号で、植民地時代の供出制を廃 止し、自由取引制を導入した。そ して軍政法令第9号で、小作料も 生産量の半分以上だったのを3分 の1にするよう指示した。米軍政 はその後、日本人所有だった土地 を農民に有償分配した。この農地 改革は大韓民国政府が樹立された 後の農地改革の根幹となった。 米軍政は当初、日本人の私有財 産を保護するつもりだったが、 「朝鮮にある日本人財産は朝鮮人 のものである」 (軍政法令第号) とし、韓国人に払い下げた。この 措置で企業、銀行、保険会社など が、韓国人や韓国政府に引き渡さ れた。 米軍政期を経て、韓国社会には 植民地時代に根を下ろした国家統 制的経済制度の代わりに、自由市 場経済が定着し始めた。穀物の自 由取引制を施行し、小作料を引き 下げたのは、個人の生産意欲を高 めて市場を通じた経済活動を活性 化するための措置だった。 日本人所有だった土地や工場 は、可能な限り民間人に所有させ、 民間人中心の経済体制を作ろうと した。この時期に払い下げを受け た企業は、後に韓国経済開発の主 役となり、今日の韓国の代表的な 企業に成長する。 米軍政は、さまざまな近代的制 度の導入を試みた。「1日8時間 労働制」をはじめ、労働組合の結 成と争議の許容など、労働三権の 保障 、女性と児童の保護、最低賃 金制の導入に至るまで、近代的な 労働・福祉制度を導入しようとし た。米国は、米国の最新の制度を 新生国にそのまま適用すること で、韓国の経済発展過程に一つの ガイドラインを提示した。 米軍政3年間は、大韓民国が建 国の過程で、発達した西欧の自由 民主制度と市場経済制度を容易に 受け入れられる機会でもあったと いえる。(続く)