李承晩と朴正煕 アメリカに挑んだ大統領 第1部 -20-

大韓民国を救える国は米国しかなかった
日付: 2015年10月28日 12時31分

 張勉は電話の後、米国務省へ走った。ディーン・ラスク極東担当次官補に会った張勉は韓国の状況を伝え、ラスクはムーチョの報告内容を知らせ、国連安全保障理事会を招集すると言った。張勉一行は米国時間6月25日午前4時に韓国大使館に戻った。
 韓国時間で6月25日の夜10時、米国大使ムーチョを景武台に呼んで対策を議論した李承晩は、ソウル遷都をムーチョに迫った。李承晩は25日の夜を徹して米国と日本に電話をかけ、戦争対策を講じていた。李承晩は26日午前3時、東京のマッカーサーに電話をかけた。電話を繋げようとしない補佐官を怒鳴りつけた李承晩は、マッカーサーに「今日のこの事態が起きたのは誰の責任か。貴国がもっと関心と誠意を持っていたら、この状態までには至らなかったはずだ。急いで韓国を救いなさい」と急き立てた。
 状況が急迫している間、李承晩は27日午前1時、再び米国の張勉に電話をかけ、トルーマンに会って軍事援助が急を要していることを訴え、協力を要請するよう指示した。「わが国軍はよく戦っている。しかし、武器もなくすべてが足りないため直ちにトルーマン大統領に会って支援を頼め」という内容だった。林炳稷外務長官も張勉に電話で、声を詰まらせながら米国に援助を要求するよう指示した。張勉は6月26日(米国時間)、休暇からワシントンに急いで戻ってきたトルーマンに会った。
 李承晩の手紙を持って米国大統領に会った張勉は涙ながらに訴えた。アチソンは回顧録で、張勉とトルーマンの面談を詳細に描写している。
 「李大統領の訴えを持って来た張勉大使は、落胆の末露のように出た涙を拭った。トルーマン大統領は、戦闘が勃発してまだ48時間しかして経っておらず、他国の人々も(韓国より)はるかに深刻な状況でも、彼らの自由を守り最後には勝利できたという言葉で張勉大使を慰労しようと努めた。私(アチソン)は、(米国の)支援が進行中だから、心をしっかりと持ちなさいと励ました」
 大韓民国の運命が風前の灯のような状況で、大韓民国を救える国は米国しかなかった。この危機の瞬間に大韓民国の大統領が米国の偉大な将軍と極めて親しかったということ、そして、その将軍を怒鳴りつけられる人物だったという事実は、運命的なことといわざるをえない。そのような瞬間に李承晩のような人物が大統領として在任したということは、大韓民国の歴史の中で重要な意味があったといえる。
 李承晩とマッカーサーは、長い間良好な関係を維持してきた友人だった。話術に優れたマッカーサーだったが、李承晩と話すときは、「そのとおり」(Yes Sir!)を連発し、李大統領の言葉を傾聴する方だったという逸話がある。国家が危機に瀕した瞬間、李承晩は米国の偉大な将軍に一方的に怒鳴ると同時に、訴えかけられる人物だった。
 6・25韓国戦争が勃発した直後の数日間は、韓国の数千年歴史の中で最も切迫した危機だっただろう。危機を迎えた瞬間、慌てふためくより冷静な戦略感覚を持って米国や周辺国に過程と手順を踏んで支援を訴えた李承晩が、その日の大韓民国の大統領官邸の主人だったということは、韓国戦争で大韓民国が生き残り、勝利できた契機を提供した源だった。李承晩は米国に訴えると同時に米国に怒鳴った。就寝中の米国軍元帥に電話をかけ、責任を取れと怒鳴りつけた大統領が李承晩だった。反共主義者であるトルーマンの国際政治認識を正確に捉えていた李承晩はまず、大韓民国国軍がよく戦っているという事実を強調した後、米国が韓国を支援するよう訴え、北韓の南侵を「世界平和への破壊行為」と定義し、米国は今回の機会に「効果的」かつ「時宜を得た援助」を提供すべきであると強調した。トルーマンが好む言葉を選んで使った李承晩の要請文は、米国の参戦決定を一層確固たるものにしたに違いない。トルーマンが李承晩の手紙の内容を聞いて張勉を慰労したのは、米国の支援が確実なものであることを暗示していた。
 李承晩と韓国政府官吏の努力にもかかわらず、戦況は不利に進展し、避難せざるを得なくなった。ソウルは6月27日、北韓軍の手に落ちてしまった。


閉じる