大韓民国の建国史(8)

「太平洋時代」の到来を可能にした李承晩の洞察力
日付: 2015年10月28日 08時24分

 李承晩が建国大統領になったのは、大きく2つの要素がある。まずは、国民的支持だ。第2は、米国の名門大学でエリート教育を受けた国際政治学の博士としての、世界史の流れに対する洞察力だった。一方、金九は厳しい国際情勢の流れを見誤って建国に反対し、暗殺されるという悲運の生涯を終えた。
 李承晩の共産主義との闘争を振り返って改めて感じるのは、彼の先見の明だ。ロシアでボルシェビキ革命が起きて共産主義が胎動しはじめたとき、世界の知性は共産主義を美化し称えた。ただ一人、李承晩だけが1923年3月、『太平洋雑誌』に書いた「共産党の當不當」という論考で、共産主義の長所と短所を一つひとつ指摘し、批判した。
 李承晩は共産主義の平等思想については肯定的に評価しつつ、共産党の(1)財産共有の主張、(2)資本家根絶の主張、(3)知識階級否定の主張、(4)宗教団体廃止の主張、(5)政府も軍事も不要とする国家消滅論などを批判した。
 李承晩はまた『太平洋雑誌』の1925年7月号に発表した「共産主義」という論説でも、共産主義を6つの観点から徹底批判した。共産主義とのいかなる妥協も拒否した李承晩がいたからこそ、共産主義の激烈な膨張は韓半島で食い止められた。
 そのおかげで日本・韓国・台湾で自由市場経済の花が開き、太平洋時代の到来を可能にした。共産主義への幻想が広まっていた時代、李承晩が登場しなかったら、韓国社会の共産化は避けられなかったはずだ。
 李承晩は、解放された祖国の共産主義化を防ぐため、共産主義と戦って韓半島から共産主義を追い出すことを決意した。それが唯一の道だった。
 李承晩は1945年12月19日の夕方、ソウル中央放送局での週例放送演説で「共産党に対する私の立場」を演説した。彼はその冒頭から「われわれの事情から共産党を望んでいないことを世界各国に宣言する」と切り出した。
 この日の演説は、第2次世界大戦終息後の世界で、共産党に対する初の正面対決宣言だった。英国のチャーチル首相が行った、かの「鉄のカーテン」演説より4カ月も早かった。その内容は、次のとおりだ。
 「わが大韓民国のことをいえば、元々共産主義を知る同胞が内地ではわずか数人にすぎないため、共産主義の問題はまったくないのだ。いま共産党といわれる同胞たちは、実は独立のための愛国者たちであり、共産主義のために国を破壊する人々ではない。したがってシベリアにいるわが同胞たちも大半がわれわれと同じ目的で命を犠牲にしようとする愛国者であることを、われわれは信じて疑わない」
 李承晩は共産主義者が韓国の民衆を扇動し、国を他国に売り渡そうとしていると指摘した。彼はさらに続けた。
 「彼らはロシアを彼らの祖国と呼ぶそうだから、それが事実なら、われわれは彼らに韓国を去って彼らの祖国へ戻って彼らの国に忠誠するように言いたい。われわれはわが国を取り戻して、完全にわが国にしてわれわれが望むとおり国を建てて生きたいという所存だ。共産主義者たちが韓国人の形をして来て、われわれのものを奪って彼らの祖国(ロシア)のものにしようとすることを、われわれは決して許さない。われわれ3000万の男女は、全員命をかけて戦う決心である」(続く)


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