戦後70年 在日の肖像(8)

国籍差別撤廃 門をこじ開けた
日付: 2015年10月21日 05時02分

 「日本における在日外国人への制度的差別に立ち向かった人です。直接は存じ上げませんが、今の自分があるのは、金先生のおかげでもあると思っています」
 関東の公立学校で教壇に立つKさんは在日韓国人3世だ。大学を卒業してから一般企業に入り、その後教員採用試験を受けて現職にある。
 在日外国人は1990年代初頭まで、一部の自治体を除いて公立校の教員になれなかった。その後は教員になる道も開けたが、管理職への採用は多くの場合望めない。「国籍条項」との戦いは、支援団体を中心に今も行われている。
 Kさんは国籍条項撤廃の活動において、金敬得弁護士の存在も大きかったと評価する。在日外国人、とりわけ在日韓国人が就職差別を受けていた1970年代後半、金敬得は外国籍でも日本の弁護士になれる道を開いた。彼は外国籍弁護士第1号になった。
 「私はまだ小さかったですが、父がかなり関心をもってニュースを見ていたと記憶しています。『お前も勉強すれば弁護士になれるぞ』と、嬉しそうに話していたのが印象的です」とKさんは話す。教員と弁護士では事情も分野も異なるが、在日韓国人への門戸を開いてくれたパイオニアだと尊敬している。
 大阪市内に弁護士事務所を構える裵薫さんは、金敬得とは「敬得さん」、「裵君」と呼び合う仲だった。金敬得を知ったのは報道を通じてだった。裵さんは当時、大学を卒業して公認会計士を目指していた。
 「金敬得という人が最高裁判所とかけあい、1977年に司法修習生となった。最初は『こういう道があるのか』という程度の認識だった」
 公認会計士となった裵さんは、1年ほど働くうちに弁護士を目指すことを決めた。「自分には合わない」と感じたからだ。
 司法修習生になった裵さんは上京し、同期の在日韓国人3人で金敬得の事務所を訪れた。面識はなかったが、電話すると「来い」と快く受け入れてくれた。
 事務所の近くで焼き肉をつつきながら話をした。「みんな『怖い方』という印象を抱いているようですが、私にとっては兄のような先輩でした」と振り返る裵さんは、人権問題に取り組みたいと考えていた。指紋押捺拒否事件、地方参政権獲得運動など、在日韓国・朝鮮人の人権擁護活動をしてきた金敬得は、尊敬すべき存在だった。
 裵さんは金敬得に、在日韓国人の弁護士団体を作ろうと持ち掛けた。「弁護士は協調性に欠ける。頑固者だからダメだよ」と断られた。頑固者で一途。裵さんは「まるで敬得さん自身のことを言っているみたいだった」と振り返る。
 「でもそういう人じゃないと、外国人弁護士への道を開くことはできなかったでしょうね」
 裵さんは02年、共同代表として在日コリアン弁護士協会を立ち上げた。その3年後、金敬得はこの世を去った。56歳。多くの人がその死を悼んだ。
       (溝口恭平)


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