日本の降伏後、南韓(韓国)では共産主義者が主導権を掌握し、混乱と葛藤が広がっていった。状況は在日同胞社会でも同様だった。共産主義者らは異なるイデオロギーを持つ人や海外で独立運動をしてきた人々と敵対した。
植民地期間を通じて、韓半島内の民族運動と独立運動は、主に教育・文化・言論活動を中心に展開された。政治的組織力と動員力は乏しかった。一方、共産主義者らは、ソウル駐在ソ連領事館の指導を受け、組織再建は早かった。彼らの目標は社会主義国家を作ることだった。朴憲永らは韓国がソ連邦の一つとして編入されるべきだと主張した。
トルーマン米大統領は8月18日、声明を発表した。「日本軍の降伏は平和を愛する英雄的な韓国人の解放を意味する。日本軍閥の支配の下で長い間残酷な奴隷生活を送ったにもかかわらず、韓国人は民族的自由と自らの誇らしい文化遺産に対する献身的努力を続けてきた」と高く評価し、自由独立国家の機能と責任は韓国人自身が担当することになると表明した。
反米教育を受けてきた南韓では、米軍が進駐しても急に米国を支持することへの戸惑いがあった。ところが、1945年10月16日に米国から帰国した李承晩・初代大統領の存在は、南韓社会に少なからぬ波紋を及ぼした。李承晩の反共的思考は、当時の南韓社会の一般的な雰囲気とも、ソ連との協力を模索していた米軍政とも合わなかった。
米軍政は政府を自称する政治活動は禁じたが、その他は自由化を推進した。試行錯誤は少なくなかったが、軍政業務も可能な限り韓国人を中心にして行なおうと努力した。南韓社会には、自由な雰囲気があふれ始めた。植民地の直前に試みられた西欧的教育とキリスト教が活力を取り戻した。
一方、北韓住民は天皇と日本軍歌の代わりに、ソ連軍歌を歌い、スターリン万歳を叫ぶように強制された。住民は略奪や暴行などソ連軍の蛮行と過酷な全体主義的統治に反発した。
ソ連軍とその手先の人民委員会などへの嫌悪感で、各地で反ソ・反共運動と衝突事件が相次いだ。1945年11月23日、新義州で学生が中心となって「共産党打倒」を叫ぶ大規模の反ソ・反共決起が起こった。ソ連軍は機関銃と戦車、戦闘機まで動員して無慈悲に鎮圧した。23人が死亡、700人あまりが負傷し、約2000人が逮捕された。
多くの北韓住民が越南し始めた。この越南した知識人・企業家・宗教家らを中心に、反ソ・反共社会を建設すべきだという雰囲気が南韓社会に形成される。
日本軍の軍人や労働者として満州、日本、太平洋地域に出ていた約320万人のうち、250万人ほどが韓半島に帰還した。外国生活を経験したエリートや労働者の帰国は、韓国を植民地以前の封建社会に戻れなくする、近代社会への移行の活力源となった。建国革命への険しい道程は、混乱の中で始まった。(続く)
訂正 9月2日付で、ソ連軍政と会ったのは金正日ではなく金日成です。