その日のソウルは暑かったと、鄭斗寿さんは記憶している。東京から3、40人の訪韓団がソウルに向かったが、鄭さんはその一員として、1974年8月15日の光復節式典に参席する予定だった。翌日には済州島の実家を訪ねることになっていたが、予定は最初から崩れた。ホテルを出たバスが到着したのは、会場ではなく、会場に近い南山頂上の公園だった。
「話が違う」と食い下がる人はいなかったと記憶している。「統制が厳しい時代でしたから」。せっかくの式典には参加できなかった。バスを降りて公園内をぶらついていた。式典は10時から始まっていた。突然、バスの中でラジオを聞いていたガイドの女性が全員を呼んだ。
「会場で何かあったようです。銃声が聞こえて…」
添乗していた政府の係員に案内され、一行はすぐに山を下りた。向かった先はYMCAホテルだった。
鄭さんは同行した民団役員と2人で、一つの部屋に入れられた。従業員に事情を聞こうにも「よくわかりません」というばかりだった。部屋にはラジオもテレビもなく、窓からは裏通りしか見えなかった。
同じ日、東京には「朴大統領狙撃さる!」の一報が伝えられていた。11時前のことだった。民団主催の式典はその1時間後に始まった。当時婦人会東京会長として壇上にいた崔金粉さんの目には、不安げな来場者の顔が映っていた。会場はざわめきが絶えず、重苦しい雰囲気だったという。「大変なことになった」というささやきも聞こえた。
午後のアトラクションが行われているときに「狙撃犯は日本国籍の青年。陸英修女史重体」と伝えられた。崔さんは「日本人は韓国に恨みを持っているから」と考えた。当時の日本では、「独裁者」の朴大統領が命を狙われるのは当然とみる風潮があった。「日本の偏向報道を糾弾する!」と、会場は気勢を上げた。
翌日、報道は急展開を見せる。犯人が在日韓国人の青年・文世光であることが明らかになった。崔さんは憤りが罪悪感に変わっていくのを感じていた。
ソウルにいた鄭さんは事件翌日、ホテルマンから「在日韓国人が発砲し、陸英修女史が亡くなった」とだけ聞いた。新聞を求めたが、ないといわれ、「危害を加えられる恐れがあります。絶対に外出しないでください」と警告された。異様な雰囲気に圧された。「大統領はどうなったのか」と訊きたかったが、それもできなかった。
「当時は下手なことを話したら連行されてしまうかもしれない時代。靴から背広まで、在日は身に着けているものが違うから、すぐにわかる」
東京に住む家族に安否だけは伝えたいと思った。だが電話をするのははばかられた。情報部員が従業員に扮しているかもしれないとも警戒した。機転を働かせてロビーで絵はがきを買って送った。文面をオープンにすれば、逆に怪しまれないと考えた。外をちらりと見ると、街は閑散としていた。
ホテルを出ることが許されたのは18日。従業員にタクシーを呼んでもらった。空港までの約1時間、同乗した役員とはほとんど口をきかず、運転手との会話もなかった。空港でも何か聞かれるようなことはなく手続きを終えた。
済州では、母をはじめ親族から一様に事件のことを聞かれたが、「何もわからないままホテルに缶詰めにされた」という以外に答えられなかった。実際に知らなかったし、事件のことを聞かれると、探りを入れられているような居心地の悪さを覚えた。相手も深く追及しようとはしなかった。
「お互いに警戒していたのかもしれません」
鄭さんは到着翌日には済州を後にしていた。文世光事件発生後、残ったのは恐怖心だった。祖国は遠ざかった気がした。
「しかし改めて考えると不思議ですね。なぜあの日、私たちは会場に行けずに南山に連れていかれたのか。もしかしたら…」
鄭さんは、日本から来る者に警戒せよという通達が事前にあったのではないかと疑う。手掛かりはないかと記憶の断片を拾い出そうとするが、それは重く、猜疑心に満ちたあの日のソウルの空気に塗りつぶされてしまっている。
(溝口恭平)