7月、日本に住む一人の脱北者が、密かに北へと戻った。”地獄”であるはずの北から逃れ、生まれ故郷である日本で数年にわたり生活していた女性だ。支援の手を差し伸べていた団体の関係者によると、彼女は日本から北に戻ったケースとしては3人目になるという。なぜ彼女は北に戻ったのか。
(溝口恭平)
北韓に戻ったのが判明したのは、石川英子さんだ。幼いころ両親とともに、総連のいわゆる「北送事業」で北に渡り、韓半島の北東端に位置する咸鏡道に住んでいたという。
脱北者の支援などを行っている関係者によると、自らの意志で日本から北に戻った脱北者は、石川さんで3人目だ。日本に住む脱北者は約200人。そのうち3人が北に戻ったことを多いと見るか少ないと見るかについては見方が分かれる。日本の100倍の脱北者を抱える韓国からも北に戻った脱北者はいるが、人数は100人に満たない。
日本から北に戻った3人には共通点がある。本人、あるいは母親が日本人であるという点だ。
日本に来た脱北者が再び北に帰ったケースとして、いまだ記憶に新しいのは05年の平島筆子さんの一件だろう。これが最初のケースだ。
平島さんは1959年、在日朝鮮人の夫とともに「帰国船」に乗り、03年に日本へ帰ってきた。それからわずか2年後、北京の北韓大使館で涙ながら「将軍様、万歳」と、金正日を称える平島さんがいた。
平島さんの「帰国」から2年後、「都秋枝」という女性が会見を開いた。今回北に戻った石川英子さんの妹、一二三さんだ。
両者とも会見では、日本に行ったのは自らの意志によるものではなく、日本での生活も苦しかったなどと繰り返し述べた。この主張を北のプロパガンダと受け取る人は多かった。
支援者によると、石川さんには北に残した家族から頻繁に連絡があったという。「お金を送ってほしい」、「帰ってきてほしい」という家族の声が、石川さんの気持ちを動かしたとみられる。
石川姉妹が強い意志を持って日本に来たという点にも疑問は残る。2人は、先に日本に来ていた兄に説得される形で脱北し、日本に来た。当初は日本に帰る考えはなく、中国で兄からお金だけをもらって、再び豆満江を渡って戻るつもりだったともいわれる。
現在日本に住む脱北者の男性は、北の保衛部の策略ではないかとみている。男性の元にも家族から連絡は来るが、「帰ってきてほしい」とはいわれない。石川さんとの面識はほとんどないというが「母親としての情があるので、そこにうまくつけ込めば『ころり』とやられてしまう。いつ、どのようにやればいいか、保衛部はさすがに心得ていて、宣伝に使う」と説明する。ただ、今のところ石川英子さんの会見は開かれていない。
3人とも日本人女性である点について、ある脱北者は在日韓国人との違いを指摘する。「北に行った日本人は、家族と絶縁状態の人が多く、日本に戻ってきても支援が受けられない」という。
行政からの支援が不十分だというのは、以前から指摘されていた。生活保護を受けて金銭面での不安がなくなることはあっても、北に住む家族への仕送りまではまかなえない。語学学習や就業、生活環境の違いを乗り越えるための支援は、今のところ民間団体頼みだ。頼れる親族も少ない日本人脱北者は、孤立しやすい状況にあるともいえる。
「日本社会は氷のように冷たかった」
石川一二三さんの言葉だ。北の宣伝に利用された側面もあるだろうが、少なからず本心もまじっているのではないだろうか。