【寄稿】共同幻想 忠誠と歴史の歪曲

再統一を失わせた戦争 200万人の命を奪った独裁国家の心理 
日付: 2015年06月17日 07時22分

金一男(韓国現代史研究家)

不条理を可能にした情報統制

 間もなく6・25動乱(1950年の朝鮮戦争、韓国戦争)の65周年がめぐってくる。1950年6月25日、北朝鮮軍の突然の侵攻によって、3年余の間に200万人以上の人命が直接・間接的に失われた。国土は灰燼に帰し、親を失った戦災孤児が巷にあふれた。
また南北の分断は、これによって厳しい軍事的対峙の中で完全に固定化された。
開戦当日、ソウル市庁前を通る北韓軍
 東西冷戦下の代理戦争であったとはいえ、北朝鮮軍の無謀な南侵は恐るべき戦争犯罪であった。金日成・北首相がソ連のスターリンの了解のもと、建国間もない中国を巻き込み、1948年の済州道武装蜂起(4・3事件)の延長線上に本格的な戦争計画を実行したものである。
しかも、戦後に金日成・北首相は南労党系の幹部に戦争失敗の責任をなすりつけ、彼らを処刑し、独裁体制をいっそう固めた。このような不条理を可能にしたものは、情報統制による徹底的な洗脳教育だった。
北朝鮮指導部は、戦争は南側の挑発によるものだったとし、彼らの侵略行動はアメリカ帝国主義から南朝鮮を解放し、民族統一を実現するための正義の解放戦争、愛国戦争だったとしている。
そして、朝鮮総連傘下に残っている在日同胞の一部は、それを言葉通りに信じているふりをしている。
北朝鮮軍の南侵に始まる戦争によって、200万人以上の同胞と外国人が殺戮された。
6・25動乱は愛国戦争などではなく、北の戦略的過失にもとづく戦争犯罪であった。
根強い反対もあった中、北送は行われた

民族統一であれ、社会主義であれ、いかなる理想も根拠も、この重大な過失を合理化することはできない。当時の国際情勢からしても、彼らは三十八度線を越えてはならなかったのだ。
この戦争さえなければ、いかなる形態であれ、民族の再統一はもっと早くに実現可能であったであろう。
平壤政権による核兵器開発も、また、事実上の分断永久化である「連邦制」の主張も、その淵源をたどれば、この戦争の責任を永久に回避するためのものと言える。
彼らが、オオカミ少年のように「アメリカの侵略策動」、「南朝鮮傀儡の侵略野欲」と騒ぎ立てるのは、かつてみずからが犯した罪の大きさを恐れ、それを隠ぺいし続けたいと考えているからなのだ。

同胞の受難 知りつつ目と耳ふさぐ

 2015年4月7日付、総連傘下の「朝鮮商工新聞」の5面に、「心に秘めた不屈の精神/姜二中広島県商工会顧問、わが半生」と題したルポルタージュが掲載されている。
その一部を引用する。
その冒頭は、「戦争が勃発した6月25日、平壤放送の一報が世界に発せられた。『我々はアメリカ帝国主義の傀儡、李承晩政権から南朝鮮人民を解放する』。」と始まる。
続いて「…南側社会では戦争前から、共産軍が攻めてくる、奴らは容赦なく人を殺す、という宣伝が流布され、人々の恐怖心をあおった。朝鮮人民軍の電光石火の大攻勢に対し、傀儡軍はなすすべをなくして逃走した。混乱の中で人々は途方に暮れ、ただただ怯えるだけだった」とある。
民族の分断を固定化した戦争犯罪としての6・25動乱の意味が、また200万人の同胞らの死の重みが、まったく理解されていないかにみえる。
この姜二中なる人物にも、また、この人物の談話を着色したルポ記者にも、多くの親戚や友人がいたであろう。
とすれば、わずかな批判的言動によって、というより正当な疑問の表明によって理不尽に組織から排除され、迫害された人々の思い出を持っているはずだ。
また、希望を持って北へ帰った同胞らの一人ひとりについて、記憶を残しているはずだ。
1959年末から始まった北への「帰還運動」当時、平壤政権は「地上の楽園」と大宣伝をくりひろげ、何も知らない9万3000人の在日同胞が海を渡った。しかし、帰還者への思想統制と弾圧の嵐は、その翌年の60年にはすでに始まり、多くの在日同胞が収容所に送られて消息を絶っている。
その中には、当然、この姜二中氏やルポ記者と近い人たちがいたはずだ。
ちなみに、筆者の叔父もこの帰還船に乗った。
当時の多くの帰還者がしたように、叔父もまた、私の父母との間に密約を残していった。最初の手紙の中にある文言をいれてあれば、総連の宣伝は事実と違うということが分かるようになっていた。
北朝鮮から手紙を受け取った母は、顔が真っ青になり、「やっぱりそうか。かわいそうな弟よ」と言ったきり、黙って涙を流した。同封の叔父の写真はげっそりとやつれ、日本にいた当時のふくよかな面影はなかった。
それからの母は、毎月、段ボール箱一杯の仕送りを叔父が咸鏡道の炭鉱地帯で亡くなるまで続けた。
先の「心に秘めた不屈の精神」という半生記が出される前の週の朝鮮総連機関紙「朝鮮新報」には、ある老婦人のルポルタージュが1面に載っている。
「ただただ元帥様を信じて生きて来た。首領様を信じることが愛国の道であり、朝鮮人として生きる道だ」という内容である。
この記事にもまた、ルポ記者の着色があるであろうが、これら二つのルポルタージュが読者に要求していることは共通している。「首領様への絶対的忠誠心」であり、歪曲された歴史認識への無条件の同意である。偽善の極みというほかない。

自由からの逃走 人々の行動メカニズム

 エーリッヒ・フロム(1900~1980、ドイツの社会心理学者)に『自由からの逃走』(1941)という著作がある。
おりしもドイツを席巻していたヒトラー崇拝の中で、ナチズムに傾倒していった一般のドイツ人の心理を考察し、「人間の自由」には、その対価として孤独や責任を受け止める「覚悟」が必要であることを説いている。
旧日本兵はなかなか降伏しなかった
 フロムは、「自由からの逃走」、すなわち自由であることの重みと責任を回避しようとする行動のメカニズムとして、「マゾヒズム」と「サディズム」、そしてそれらを統括する「権威主義」の存在を指摘している。
サディズムとは、広義には「加虐性向」と訳され、他者に対する支配や抑圧を喜ぶ心理をいう。なにがしかの理由で不安定な攻撃的人格が、外形的権力を纏い「強者」として演技することで、心理的に安定するシステムである。
マゾヒズムとは、他者への従属や抑圧されることに満足する心理をいう。不安定かつ比較的に受け身の人格が、外部からの強力な統制をうけ、何も考えずにすむようになることで、一定の心理的安定に達するシステムである。そこでは常に「奴隷」が演技される。
無条件的な忠誠を要求する「権威主義」は、このような心理的基盤の上に、一つの政治的共同幻想を強固に作り出していく。これは、祭政一致の古代社会や王朝時代以来、もっとも安直かつ反動的な政治的支配形態である。
過去のドイツに限らず、第二次大戦以前の日本においても、帝国主義時代の愛国主義の中に、この共同幻想は確立されていた。戦争の勝敗がすでに決せられているにもかかわらず、「玉砕」が強要されて終戦が遅延され、多くの無用な犠牲を生んだ。
ちなみに、「戦陣訓(生きて虜囚の辱めを受けず)」を布告し、捕虜となるよりは自決することを兵士たちに命じた当時の戦争指導者自身は、おめおめと米軍に捕らわれ、戦犯として処刑される最後の瞬間まで生きていた。
また戦後にも、1972年の浅間山荘事件の例がある。反権力と革命による平等社会を夢見た若者たちが、組織の絶対的権威の名の下に、「総括」と称して12人もの「同志」を虐殺した。理念的共同幻想が生み出したあまりに凄惨な事件である。
彼らは、目に見える権力に対しては敏感だったが、人が誰でも持っている内なる権力志向に対しては盲目であった。闘うべき「敵」は、まさに自分たちの心の中に住みついていたのだ。
この種の、「平等主義」や「集団主義」をかかげたカルト的運動の悲劇については、ジョージ・オーウェル(1903~1950、イギリスの作家)の風刺小説『動物農場』(1945)がある。そこには、一つの理念的権威がどのようにして悪用され、また、ゆがんだ全体主義的権力を生み出していくのか、その過程が実によく描かれている。
1990年代中ごろのオウム真理教事件もまた、その例に該当する。多数の乗客がいる地下鉄車両の中で猛毒のサリンがまかれている。
その構成員は比較的に高学歴であったが、指導者の権威をうのみにし、かつ権力志向の強い若者たちだった。

うぬぼれと、追従と、思考の喪失

 2002年の朝日首脳会談で、北朝鮮の国家組織による「大量拉致事件」が明らかになった。
そのしばらく後、私の知る総連傘下の女性同盟幹部が、「拉致事件なんてでっち上げよ」と疲れた顔でつぶやいたのを記憶している。平壤の指導者自身が組織的拉致の事実を認めたにもかかわらず、である。
金正日は日本人拉致を認めたが…
しかし、その目にはすでに以前のような自信に満ちた信念はなく、現実によって裏切られた悲しみだけがありありと見えていた。
「愛国者」であることが彼女の終生の誇りであった。だが、彼女は、「愛国者」として仲間から称えられることよりも、あるいは勲章をもらうことよりも、「自分の頭で考え、より正しく生き抜く」ことに専念すべきであったと思う。
ちなみに、「愛国主義」ということについては、ショーペンハウエル(1788~1860)が『人生論』の中で「愛国主義とは、自分には何も取り柄のない無能な者たちが、自分に箔をつけるためのお守りのようなもの」という趣旨のことを述べている。
要するに、「自分もひとかどの者」とうぬぼれる一番手っ取り早いやり方が、「愛国主義」を標榜することなのだろう。
ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724~1804)に「啓蒙とは何か」という小論がある。
その中でカントは、「自分自身の悟性を使用する勇気を持て! これがすなわち啓蒙の標語である」と述べている。自分の頭で考え、自分の責任において行動することの大切さを語っているのである。
そして、権力に盲従したがる人々の性向に関し、「後見人たち(権力者たち/筆者注)の手で最初にこの首かせにつながれた民衆が…今度は自分たちの方から後見人に迫って、いつまでもこの首かせにつないでおいてくれ、というのだ」、と批判している。
カントが啓蒙によって開かれた自律的精神の拡張を求めたのは、それが時代の共同幻想を打ち破り、彼が理論的にその実現を予測した「世界公民共同体」の唯一の基礎となるからであった。
18世紀後半におけるカントの予測は、とりあえず20世紀の「国際連合」と「ヨーロッパ共同体」によって、すでにその一部が実現されている。21世紀の現在、網の目のように世界に張り巡らされている「自由貿易協定FTA」もまた、その一部である。
私たちの民主主義が未熟なのは、制度の欠陥よりも各自の人格的独立性の欠如による。私たちの自由が見せかけだけであるのは、社会における真の啓蒙の不足による。


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