大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(51)

そしてフィクションは史実になった
日付: 2015年04月15日 00時00分

 朝総連が宣伝や謀略活動に特別に力を入れてきたのは共産独裁・全体主義体制の本質からして当然のことだ。全体主義独裁が宣伝と洗脳によって行われることを端的に示す例は「金氏王朝」の世襲過程に見られる。金正日が金日成から権力を承継するための業績作りに利用したのが映画などの宣伝活動で、金正日は党の宣伝扇動部を直接管轄した。
平壌から”鉄の指導”を受ける朝総連組織を見ると、宣伝・扇動(洗脳)のための組織が多いことがわかる。朝総連が発足初期から基本組織はもちろん、主な傘下団体にも「学習組」を組織し、「党生活」を強いたことは秘密ではない。
学習・宣伝・扇動を任務とする組織を具体的に見てみよう。社協や全国的に組織された各級教育機関をはじめ、いわゆる「出版報道機関」が緻密に組織されている。朝鮮新報、朝鮮通信社、学友書房、朝鮮青年社、文学芸術や朝鮮商工新聞などは傘下団体別・地域別に多様な機関誌を発行し、総連映画製作所、時代社、金剛山歌劇団、地方の歌舞団に至るまで、「多様な群衆文化のための芸術小組」が強調されている。
このすべての宣伝・教養媒体は、平壌の労働党本部の唯一指導体系によってコントロールされる。これらの組織の中でも、朝総連組織だけでなく日本社会に対してまで誤った認識を拡散させてきたのが文芸同(在日朝鮮文学芸術家同盟)といえよう。この組織は、フィクションを事実化・歴史化する任務を果たしてきた。
済州4・3事件に対しては、関心の割にはほとんどの人が真相を知らない。盧武鉉政権時代の報告書には、朝総連などの従北派が書いてきた内容がそのまま反映された。その真相を、首謀者の正体から少し具体的に見よう。
「4・3事件」の済州人民遊撃隊の初代司令官だった金達三の本名は李承晋。日本の中央大に留学中、福知山の陸軍予備士官学校を出て日本軍将校に任官したそうだ。仮名の金達三は岳父・姜文錫から譲ってもらったという。姜文錫は南労党の宣伝部長で、朴憲永の直系だった。姜文錫は植民地時代、上海で地下活動を行っていた時に「金達三」と名乗っていた。
金達三(李承晋)は、朴憲永の指示で暴動を起こした。朴憲永の背後には当然、金日成とスターリンがいた。従北派や左翼は、このような事実を隠ぺいしている。
「済州人民遊撃隊」の司令官・金達三は、南労党が「地下選挙」で実施した「朝鮮民主主義人民共和国の代議員選挙」で済州島代表に選出され、1948年8月21日から38度線以北(黄海南道・海州)で開かれた「人民代表者大会」に参加し、「済州4・3闘争に関する報告」を行った。彼は国旗勲章2級をもらっている。平壌で開催された「最高人民委員会第1次会議」(1948年9月)にも出席し、憲法委員会の憲法委員49人の1人に選ばれた。これだけを見ても「4・3事件」が単純な暴動ではなく、反乱だったことは明確だ。
金達三は翌年、遊撃隊を率いて南韓に浸透し、ゲリラ戦を展開中に射殺される。金達三の仮の墓は、平壌の「愛国烈士陵」にある。ちなみに金達三の岳父の姜文錫(南労党宣伝部長)は、朴憲永と一緒に越北したが、後に金日成によって粛清された。
当然のことながら、「民衆抗争」に参加した南労党出身の革命家たちは北へ逃れた後、ほとんどが粛清(処刑)された。朝総連組織の宣伝隊も、もし彼らが何かの事情で北へ行っていたら、粛清を免れることはできなかったはずだ。朝総連が組織を総動員して「北送事業」で北へ送った往年の同僚のうち、今日本にいる自分たちほどの生活が許される者はいるだろうか。
このような悲惨な歴史を見ながらも、自分は虐殺される心配のない安全な日本で、ひたすら北韓に服務することを「愛国活動」だと強弁するのが朝総連であり、彼らと連帯し支援してきた日本の知識人だ。
もっとも、日本には、自由のために、自由民主主義のために血を流した歴史はないのだが。
(続く)


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