朝総連組織が日本の戦後風土の中で展開してきた工作がどのように実を結んだのかを表わす「事件」が先週、朴槿惠政権下の韓国で起きた。「済州4・3平和財団」が1日、在日作家の金石範(愼陽根)に「第1回済州4・3平和賞」を与えたのだ。
済州4・3平和財団は、金大中政権が制定した「済州4・3事件真相究明および犠牲者の名誉回復のための特別法」によって2008年に発足した公益財団だ。その公益財団が選んだのが、朝総連文藝同出身の金石範だったのだ。
統合進歩党が解散されてから100日あまり。「反大韓民国勢力」が大韓民国を攻撃した象徴的事件といえよう。
金石範は受賞式典で「大韓民国は民族反逆者が建てた国」で、「済州道民の抵抗は、内外侵攻者への防御抗争」だったと主張した。済州4・3事件は、大韓民国の制憲国会を構成するための総選挙(1948年5月10日)を破綻に追い込むため、南朝鮮労働党が指令した暴動・反乱だ。ところが「済州4・3事件真相究明と犠牲者の名誉回復委員会」(委員長・国務総理)は「民衆抗争」と規定し、鎮圧過程での犠牲は軍警による虐殺によるものと断定した。
「4・3暴動」が「民衆抗争」に変わる経過をみると、平壌と朝総連の執拗な歴史捏造と謀略の工作が浮かんでくる。
済州島には、植民地時代から朝鮮共産党が組織され、解放直後には済州島人民委員会が組織されていた。朴元淳・現ソウル市長が主導して作成された4・3真相報告書は、4・3事件が1947年3月1日から始まったとしている。その前月に結成されたのが南労党済州島委員会と、その前衛組織として暴力を振るった「民民戦」(朝鮮民主主義民族戦線)だった。
朴元淳は南労党党首・朴憲永の子である僧侶・圓鏡と歴史問題研究所を作り、韓国の歴史をけなしてきた。真相報告書の作成過程では暴徒による虐殺の犠牲者については調査もせず、犠牲者の中に南労党の暴徒が多数入った。それをもって韓国政府に謝罪と追悼を求めた。こうして暴動や反乱の性格が強かった4・3事件は、「5・18光州事態」とともに、民衆抗争に書き換えられた。
「民民戦」済州島委員会の文化部長が金奉鉉だ。金奉鉉は関西大学卒の日本共産党員で、解放後に帰郷して中学校で歴史を教え、4・3暴動のときは金達三直属で済州人民解放軍済州西部地域司令官などに加担。その後日本へ逃走して大阪で朝総連幹部になった。
金奉鉉は4・3暴動に関する本を3冊書いている。同じく4・3暴動に加担し智異山パルチザン活動にも加わり、日本へ逃走した金泰奉と一緒に「済州島人民たちの4・3武装闘争史」も記している。これらの本が4・3暴動を「民衆抗争」に変える原型になる。
金石範も関西大を出て大阪を舞台に活動してきたが、彼だけでなく、内外で済州4・3事件を民衆抗争に美化する創作の根拠としたのが金奉鉉の本だ。
朝総連には、韓国を捨てて日本で金日成に忠誠を捧げ、時には無国籍を標榜しながら、自分の「恨」を小説にする者が少なくない。韓国を罵倒しつつ、日本国内に「反韓文化」を広める工作の根でもある。
朝総連文藝同の主な任務は、歴史を捏造することだ。金日成神格化はさすがに難しいため、韓国を否定することが彼らの主任務となる。日本の戦後風土は、この朝総連の「創作」を「歴史」とした。北のプロパガンダに深く影響された日本の文化人や出版界は、反李承晩、反韓国になるならフィクションでも事実化してきた。(続く)