従北の元祖である朝総連中央本部は、これからも本部会館に居座り続けることが濃厚になった。朝総連本部建物の競売が紆余曲折の末、香川県の不動産会社にわずか22億円で落札されたとき、そしてその会社が正体不明の山形県の小さい不動産屋に転売したとき、少なからぬ専門家だけでなく、この競売の成行きに多少でも関心を持っていた人の間でも「やはり」という観念に近い冷笑の空気が漂った。
もちろん、許宗萬など朝総連指導部は必死だったし、平壌も様々な形で日本当局に圧力を加えてきたと知られてはいた。だが、朝総連が70年近く日本国内で築き上げてきた工作のインフラについて思いを巡らせれば、やはり当初から朝総連が本部会館を手放すということは考えられなかっただろう。
朝総連から見れば、こういう事態をくぐりぬけるための対日工作は、さほど難しい課題ではなかったかもしれない。
元公安調査庁長官の緒方重威氏が朝総連のために朝総連の本部建物名義変更工作に協力した事件(07年4月)は記憶に新しいが、朝総連の対日工作を長い間観察してきた専門家の間では、日本の総理経験者など、想像もつかない人脈を朝総連とその背後の平壌が管理してきたというのは常識になっている。
平壌は1960年代までは共産党をはじめ、主に左翼系の組合などを中心に連帯をしてきた。その後、日本社会党をパートナーに変え、やがて北の対日工作のターゲットは自民党に変わる。
朝総連は「朝連」時代から朝鮮労働党の在日戦線司令部だった。朝総連はこの対日工作のための組織で、すでに1950年代に在日労働党秘密党員である「学習組」が数千人規模で組織されていた。
朝総連は敗戦後の日本社会の「新しい形」が形成される過程で重要な要因の一つだった。それは日本の左翼と広範に連帯した朝総連が「平和国家」日本への強烈な挑戦勢力だったからだ。
振り返って見れば、この朝総連の前身だった「朝連」の蠢動こそ日本の再武装と破壊活動防止法制定のきっかけを提供した張本人ともいっても過言でははい。
朝総連の対日工作は、韓国を赤化統一する戦略を実行するためのものだ。日本社会を知り尽くしている朝総連と平壌の対日工作は非常に効率がよかった。あまりにも成功が続いたため、いつの間にか朝総連組織の一部は日本社会の一部と癒着し、「共生関係」にまで発展した。
朝総連と癒着した日本の親北勢力は、朝総連に代わって北と共産全体主義体制を代弁し、称え、韓国を執拗に攻撃した。「反共国家」韓国の後方基地であるはずの日本は、東西冷戦のときに韓国を背後から攻撃する敵の基地になっていた。
韓日国交正常化以前の日本は、朝総連はもちろん、ソウルより平壌に親しみを覚える勢力が優勢な社会だった。親北政治家たちが朝総連の請願の代理人になり、朝総連が治外法権を持っているかのように振る舞えるようにした。
当初はイデオロギーや信念で結ばれていたのかもしれないが、工作にはやはりカネが必要だった。そして平壌や朝総連の政治的達成目標や要求レベルが高くなるにつれ、工作に必要な金額も増えた。
韓日国交正常化以降も事情はあまり変わらなかった。韓国は朝鮮労働党のように国家の全資源を投じて政治戦争ができる体制でなかったし、日本国内に朝総連のような工作インフラを建設するのは不可能だった。平壌や朝総連の対日工作は「工作国家」だからできたシステムだった。
いずれにせよ、朝総連組織の中では次第に財政工作や資金調達能力のある者が出世し、平壌から重用された。
今回の朝総連本部建物の競売の始末を見ると、平壌と朝総連の工作インフラは根強く生き残り、まだまだ機能しているのがわかる。そして今回の工作では、協力者に日朝国交樹立のときのご褒美という餌を使った可能性がある。第2の緒方重威がいたのかもしれないということだ。(続く)