通算7回にわたる中共軍の大攻勢
「人間の津波戦法」とも呼ばれた中共軍の人海戦術攻撃は、6・25戦争中に通算7回もあった。
第1次は1950年10月25日から、第2次は同年11月25日からで、国連軍は北韓からの総退却を強いられた。第3次は同年12月31日からで中共軍が38度線以南にまで戦線を拡大した。
第4次は1951年2月11日からの「旧正月攻勢」、第5次は同年4月22日から4月攻勢、第6次は同年5月16日からの5月攻勢で中共軍は韓国軍の正面に主力を集中して戦線を押し下げようとした。第7次は1953年7月13日で停戦間際でもあり、「停戦攻勢」とも呼ばれた。
利原上陸作戦で犠牲者を出した義勇軍
国連軍は1950年9月30日、仁川上陸作戦と元山上陸作戦に成功して、新たな上陸作戦を実施した。それが東海からの利原上陸作戦だった。後退する人民軍の退路を遮断し平壌を挟撃することが目的だった。
この作戦を遂行した2万7000人もの米第7師団には、他の部隊よりも多い120人の在日義勇軍が参戦した。しかし、利原上陸作戦、それに続く惠山鎮戦闘と長津湖戦闘で3分の2を超える83人が犠牲者となった。つまり、6・25戦争中の戦死者135人のうち、大多数がこの戦闘で亡くなった。
仁川上陸作戦で第7師団に配属されて仁川に上陸した在日義勇軍は、京畿道安養にいた。当時第7師団17連隊には、朴珍雨、李柱萬、蔡昌洙など数十人が配属され、同師団31連隊には、朴萬洙、禹祗植、李得龍などがいた。軍番もない状態で各小隊に数名単位で分散していた。
そして、1950年10月末に釜山・海雲台から米軍輸送船に乗った。目的地も告げられず、50時間かけて到着した場所は、咸鏡南道の利原だった。
『参戦史』によると、利原には1950年10月29日早朝に艦船50隻が向かい、10隻の上陸用舟艇で上陸した。米第7師団17連隊を上陸させることから始まった。作戦目標に沿って、同師団17連隊は韓満国境から豊山を攻撃し、同師団31連隊の偵察隊は水力発電所がある赴戦湖貯水池東岸まで進出した。
31連隊に所属した禹祗植の部隊は、白山一帯で1個大隊規模の敵と交戦して、約50人を射殺する戦果をあげた。射殺した敵軍を調べた結果、人民軍ではなく中共軍126師団376連隊であることがわかった。
中共軍は赴戦湖や長津湖にも布陣していた。禹らは赴戦湖付近で約200人の中共軍を殺した。
この後、禹らが所属した31連隊第3大隊は、甲山から三水に進撃した。彼は大隊の偵察兵として任務を遂行した。だが黄草嶺峠で中共軍の集中攻撃を受けた。偵察兵の中で生き残ったのは、禹と米軍兵士の2人だけだったという。
一方で赴戦湖発電所を占領した31連隊は、長津湖に進撃したが、中共軍の大規模包囲網に遭って、興南を目指して撤収し始めた。中共軍の包囲網から脱出する過程で31連隊は兵力75%を失った。無事に後退したのは連隊2500人のうち、1000人ほどだった。この戦闘で義勇軍83人が凍土で散華した。
犠牲になった83人は当初、失踪者として処理されていたが、後日の帰還状況や南北の捕虜名簿からも確認できなかった。結局、戦死・失踪から40年以上が過ぎた1992年11月19日、韓国陸軍本部からようやく戦死者として認定された。1993年3月24日に83人の位牌は、国立顕忠院に奉安された。戦死者83人の所属は米第7師団17連隊の27人、31連隊の29人、32連隊の27人だった。