「3・1独立歩兵大隊」の解散
「3・1独立歩兵大隊」が創設され、在日義勇軍は正式の軍事訓練に入った。「3・1大隊」は、A中隊とB中隊を作って、中隊は4個小隊に編成された。軍事訓練は明け方から夜遅くまで続いた。
英語が理解できない隊員たちは苦労した。ジミー郷沢中尉は、そんな隊員たちのために、日本語と英語が併記された軍事用語手帳を配布するなど支援を惜しまなかった。
米軍の新兵訓練は通常6カ月を基準にしていたが、「3・1大隊」は3週間ほどの訓練で前線に送るという米軍側の要請もあって、猛訓練になった。隊員たちからは「いつ戦場に行くのか」などの質問も相次いだ。
ところが、「3・1大隊」が創設されてから、10日ほど経った11月11日に晴天の霹靂としか言い様がない突然の解散命令が下された。郷沢中尉は「旅団司令部の命令により、3・1大隊を今日付けで解散することになった。各自は原隊に復帰して前の任務に戻れ」と告げた。
「3・1大隊」が創設された頃は、仁川上陸作戦で国連軍と韓国軍はソウルを奪還し、38度線を越えて北進中だった。つまり、10月中旬には国軍の第1師団が平壌も占領して、鴨緑江や豆満江の流域まで進撃していた。米軍からは「クリスマス前までには日本に戻れる」とまで言われていた。
しかし、10月25日に鴨緑江を越えた数十万の中共軍が国連軍を包囲したことで戦況が急激に悪化した。国連軍と韓国軍は死闘を展開。特にこの過程で第5陣として出陣して米軍と一緒に元山に上陸した義勇軍は、長津湖戦闘などの撤退作戦の時に戦死者135人のうち3分の2以上にもなる80人近くの戦死・失踪者を出した。そういう慌ただしい状況の中で「3・1大隊」の解散命令が下されたのだ。
解散命令が下された背景を見れば、10月14日には、北の副首相兼外相の朴憲永が国連に「米軍は日本人を参戦させている」と非難の電報を送った。実際に秘密裏に元山上陸作戦で日本の海上保安庁掃海艇が参戦していた。ソ連共産党政治局は10月25日、国連と極東委員会で北の告発を支持することを採択した。
これはソ連と中共軍の参戦を糊塗するための逆謀略工作次元で日本人参戦説により米国を攻撃したわけだ。
平壌奪還戦に参戦した同志会の幹部
第2陣で仁川に上陸した義勇軍隊員たちは、富平の後方支援基地にいた。朴氏は第2ケミカル・サービス・カンパニー(火炎放射器部隊)に所属した。沖縄戦線で活躍したウィリアム・カーニーが小隊長で300人から400人規模の部隊だった。
火炎放射器部隊は戦線の先頭で戦う部隊。その特殊な火炎放射器を扱う技術がないため、最前線部隊を後方で補給支援することが主な任務だった。部隊の主力から5分から10分ほど離れたところで一緒に付いてまわった。
朴氏の場合は、日本軍への学徒出陣で軍事訓練の経験もあって、米軍との協調にもなれていたという。11月初旬ごろに富平から100台ほどのトラックで平壌に向かった。そして平壌からは戦闘部隊と一緒に戦った。
市街戦では武器や食料倉庫の警備などをしたりした。部隊が平壌以北に進めなかったのは、中共軍が韓半島を侵攻したためだった。
朴氏が見た中共軍は、兵士たちが銃は持たず、手榴弾を5、6個持って攻めて来たという。中共軍は主に夜にゲリラ作戦で攻撃してきた。暗闇の中で声を上げ、太鼓を鳴らしながら攻めてきた。
同じ在日義勇軍で別部隊に所属していた戦友の中には、疲れて寝ている間に中共軍に襲われて、命からがら朴氏の部隊に逃げ込んできた人もいたという。