仁川上陸後の在日義勇軍
第2陣は9月24日に仁川沖に着いた。柳再萬らは2日ほど船内で待機していた。そして9月26日に米軍から急に「集結しろ」と命じられた。20人乗りの上陸艇で順番に上陸した。
海岸地帯には敵軍の死体が仮埋葬されていた。死体が埋葬されている上を歩いたりもした。柳氏は「気持ちが悪かった」という。在日義勇軍たちは「これから、どこに行くのだろう」とみんな不安気な様子だった。
当初、在日義勇軍は上陸後、各部隊にわかれた。義勇軍第2陣のほとんどは仁川に近い富平の補給部隊に配属された。柳さんもその1人だった。富平までは徒歩行進だったが、周りを見る余裕もなかった。富平の補給部隊に到着してからまた2日間ほど休んだ。近くの学校で寝袋をひいて寝た。到着した最初の頃、富平の宿泊先では、レーション(戦闘食料)が配られた。缶詰セットで、中にはタバコやチョコレートなどが入っていた。米軍兵士たちは給料をもらっていたが、在日義勇軍の第1陣と第2陣には給料が出なかった。在日義勇軍の人の中には、当然「ご飯とキムチが食べたい」という人もいた。お金がなかったため、残ったレーションを部隊付近の韓国人に渡して、ご飯やキムチなどを手に入れていたという。
富平は上陸作戦後に米軍の北方地域への作戦展開のために設置された後方支援基地だった。部隊へのあらゆる補給や弾薬、食糧など軍需物資補給のための多数の部隊が集まっていた。植民地時代には、日本軍の駐屯地だったという。
「3・1独立歩兵大隊」の誕生
在日義勇軍は、第1陣から第5陣までは祖国に上陸してから、第3陣は米陸軍第7師団、第4陣は韓国国軍、第5陣は米陸軍第3師団に配属され、戦闘部隊に所属していた。
しかし、最初に上陸した第1陣と第2陣の多くは、一部だけが戦闘部隊に配置され、大部分は米軍第6兵站団や仁川港湾司令部の第506部隊、富平の補給部隊などに配属された。そして兵站基地の警備や弾薬庫の管理など、その仕事は軍人か民間人なのか区別しにくい状態にあった。戦争中の混乱状況でもあったので、中には配置命令もなく待機させられたままの人も多くいた。
日本を出発するときに共産主義侵略軍と命をかけて戦うつもりで志願した者たちにとっては強い不満があった。そこで文性煥や李奉男などは在日義勇軍の代表格として、米軍司令部に在日の参戦者らをひとつにまとめて戦闘部隊を作ってもらいたいと申し込んだ。
「在日同胞6・25戦争参戦史」などによると、在日義勇軍有側の訴えに対して、米軍は当初は懐疑的だった。しかし、朝霞キャンプで第2陣を指導した日系2世のジミー郷沢中尉が、第3兵站基地司令官のジョージ・スチュワート将軍と面会して説得したこともあり、10月中旬ごろに在日の独立部隊創設の許可が下りた。
そして、10月30日に第3兵站基地司令部の練兵場で在日の独立戦闘部隊が創設された。仁川に上陸してからバラバラになっていた在日義勇軍参戦者642人のうち約半分の323人が集まった。 参戦者らは「はりきってやろうという思いになった」という。
しかし、部隊は編成されたが名称がなかった。隊員らから名称を募集した結果、「3・1独立歩兵大隊」に決まった。この名称は、民族の自由を奪還しようとした3・1独立運動を想起し、共産主義から民主主義への解放を誓う全員の気持ちが一致して命名された。部隊は、米陸軍第8軍第6旅団司令部の下に置かれた。