射撃訓練もせず戦線へ
韓国軍にはKATUSA(カチューシャKorean Augmentation Troops to the United States Army)という軍人たち(部隊)がいる。つまり、在韓米軍に配属された韓国軍である。軍隊が外国で作戦や戦争をするときは、現地の同盟軍と連合して作戦や戦闘を行うのが効果的である。
在日学徒義勇軍はいわばこの最初のKATUSAだった。首都ソウルが陥落され国軍が敗退中に志願して入隊した本国の多くの学徒兵たちもそうだったが、9月12日に横浜から出港した在日学徒義勇軍の第1陣(78人)は出征まで本格的な戦闘訓練も受けず戦場に向いた。11月10日に小倉港を出発した第5陣(52人)になってようやく1カ月半の基本軍事訓練を受け、正式の軍番も付与されたという。今は生存者も少ないが、参戦した在日軍人会の李奉男会長などの証言を通じて、当時の慌ただしく緊迫した事情が分かる。
駐日代表部と民団、そして在日青年たちの強い要望でGHQが動いた。米軍からは7月末頃に受け入れの回答があって、8月初旬に「民団」が志願兵指導本部を設置するようになった。志願兵本部長は金光男、副本部長には曺寧柱、金載華、事務長には李富潤などが選ばれ、志願兵募集が始まった。全国各地から1000人ほどの志願書が提出されたという。
第1陣の志願者たちが都内の駿河台ホテルに集結したのが9月8日、米軍のトラックで埼玉の朝霞にあった米8軍補充訓練所(Camp Drake)に入所した。そこで簡単な身体検査を受け認識票ももらった。第1陣の場合、認識票には軍番はなく英文で名前だけが書かれたものだったという。主に制式訓練だけで、9月12日に出動の命令が下った。
バスに乗って着いたところは横浜だった。米7師団の1500人の将兵と一緒に輸送船に乗ったが、目的地はもちろん知らされなかった。輸送船の中で米軍から小銃の分解結合などを教わったという。
船は9月16日の午後、仁川沖に着いた。9月17日、米7師団の兵力と一緒に上陸した。上陸部隊は人民軍を掃討しながら、ソウル奪還を目指して進撃した。在日学徒義勇軍の第1陣が米軍と一緒にソウルへ向いているとき、日本では大阪出身の第2陣(266人)が列車で東京へ移動しキャンプ・ドレークに入って出征を準備していた。
民団の祖国戦線支援運動
民団は6・25戦争が勃発したときは、ほとんどの事務室が電話料金や事務員の給料が払えないような、「民団」の歴史の中でも最も窮乏な時期だったが、祖国の戦争を支援する覚悟を誓った。
民団中央の緊急拡大幹部会議(6月30日)は、志願兵を祖国の戦線に送る方針と同時に、戦線の将兵と避難民に救護物資や慰問品を送る運動を決めたのだ。
『在日同胞6・25戦争参戦記』によれば、在日学徒義勇軍の第2陣になる大阪地域での志願兵募集活動で民団の財政が非常に苦しいとき、坂本紡績の徐甲虎社長が100万円を寄付したという。
民団の志願兵募集には、特に左右の対立が熾烈であった地域からの応募が多かった。そして、看護士として入隊したいという女性の応募もあった。当時18歳にもならない在日女性は、戦争勃発直後「自分の祖国は、自分で守る」として、GHQに対して自身を韓国に送るよう懇願したが、許されなかった。
反共日本人たちの志願もあった。福島県の日本人青年は民団中央本部を訪れて、血書で書いた約100人の志願名簿を提示した。共産軍と戦いたいということだった。その中には、関東軍で看護士だった日本人女性もいた。大阪では特攻隊飛行士出身2人が応募した。民団は日本人の志願は断らざるを得なかった。