大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(35)

従北派の嘘は宣伝扇動の基本戦術
日付: 2014年11月19日 03時00分

 康宗憲を「真実和解委」に再審申請したのは、李錫兌、沈載桓、張慶旭など従北派の弁護士たちと連帯してきた「在日良心囚同友会」の李哲だっ
た。
康宗憲に対する真実和解委員会第3部第2小委員会事件の決定は「結論と勧告事項」で構成されている。康宗憲は自叙伝で、その結論の一部だけを巧みに引用、紹介している。
だが、委員会の調査結果の「主文」は、実際には、「この事件に関して次のように不法拘禁と過酷行為のことは真実究明でき、事件操作のことは真実究明不能であるとなったため『一部真実究明』として決定する」と明記されている。
委員会の報告書の結論部分から、康宗憲が意図的に落としたのが次の内容だ。
「一方、犯罪事実の操作(捏造)の可否は、判決で現れた犯罪事実と相反する資料などに照らして操作された可能性もあるが、重要参考人などを調査できない状態で、犯罪事実が操作(捏造)されたと断定できない」
真実和解委員会の「康宗憲に対するスパイ操作疑惑事件」調査の結論は、康宗憲の捜査や聴取にあたった保安司令部の苛酷行為は認定したが、康宗憲の犯罪事実は操作(捏造)されたといえない、と明確に断じている。しかし康宗憲の自叙伝には、捏造された可能性があるにもかかわらず、調査ができないために断定されなかったと書いてあるのだ。調査さえ行われれば捏造も明らかになると言っているようだが、康宗憲の嘘こそ左翼の典型的な法廷闘争戦術である。
韓半島の現代史や東アジアの冷戦に対してまともな教養や正確な知識を持たない人々は、康宗憲の自叙伝のような類の本だけを読めば騙される。自叙伝を含めて康宗憲の言説は、一言で朝鮮労働党の宣伝扇動に徹している。
康宗憲は高校を卒業し、1971年4月から韓国に留学して逮捕された後までのことを自叙伝に書いた。自叙伝の主な内容は、すでにこの連載でかいつまんで紹介した。
しかし彼をスパイとして韓国に送り込んだ北韓は、当時韓国にどう対していたか。康宗憲は自分が「民主化闘争」に加担したというが、康がまったく触れていない当時の韓半島の状況を簡単に記しておこう。
金日成は1962年12月、「4大軍事路線」を採択した。さらに、1964年2月、労働党中央委第4期8次全員会議で、「3大革命力量強化」路線を決め、党連絡局を「対南事業総局」に改編した。
韓国がベトナム戦争に派兵するや、金日成は北ベトナムに空軍を派兵し、毛沢東に第2の南侵戦争の許諾を請うたが、毛沢東はベトナム戦争の第2戦線を韓国内に形成させた。
金日成は1968年1月の「1・21青瓦台奇襲事件」を皮切りに、米海軍プエブロ号の拿捕、米偵察機の撃墜、特殊部隊の冬季南派など韓国のゲリラ戦場化を図る。金日成は、1974年8月までに3回も朴正熙大統領(当時)の暗殺を試み、3回目の刺客だった文世光の狙撃によって陸英修・大統領夫人が亡くなった。
韓国も1968年4月、郷土予備軍を創設。1969年からは高校生にも教練を始めるなど、まさに戦時状況だった。康宗憲は、この準戦時状態の韓国へ地下党闘争を目的に留学を装って行ったのではないか。これが当時の韓半島の客観的情勢だった。
康宗憲は、今日の過激テロ集団が子どもをテロ分子として養成するように、金日成の革命戦士としてリクルートされたのだ。(続く)


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