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民団大阪の義勇軍受付所 |
6・25戦争に、在日青年学徒たちが義勇軍として参戦を志願したことは、民団の歴史の中で特筆すべき出来事だった。だが、敗戦後の混乱期に通信手段すら乏しかった当時、若者たちが祖国を救うための戦線への志願も容易なことではなかった。
では、在日の若者たちが素手で祖国戦線に向かうとき、6・25南侵戦争を周到に準備してきた北側の事情はどうだったのか。近年、発掘された中国側の資料や中国人学者たちの研究成果によれば、「中華人民共和国」の建国が宣言される半年くらい前の1949年の春、毛沢東は金日成の要請を受けて南侵戦争のときは戦闘経験が豊富な朝鮮人部隊を部隊ごと支援すると約束した。
つまり、金日成はスターリンが提供した莫大な最新武器と韓人系ソ連軍将校たちの作戦や訓練指導に、国共内戦で共産軍の先鋒で戦った朝鮮人部隊3個師団を確保したのだ。国共内戦で蒋介石軍と戦った朝鮮人部隊が金日成の南侵戦争の先鋒で主力でもあったのだ。
当時の学徒義勇軍の募集状況に対しては後ほど触れるが、いろんな証言や資料によれば、義勇軍の募集は、駐日代表部の金龍周公使がマッカーサー司令部と接触して各地の民団を通じて行われたことが分かる。
在外同胞財団が2008年5月に発行した「在日同胞の100年足跡」によれば、在日学徒義勇軍642人の年齢別、地域別の出征状況が載っている。最年少者は18歳(2人)で、最年長者は45歳(1人)だった。20歳から26歳の間が450人だった。地域別には、東京が139人、福岡78人、大阪61人、川崎27人、宮城24人、兵庫24人、千葉23人の順番で全国各地から出征した。
当時の状況を知る辛容祥氏は「軍隊の訓練も教育も受けていない人たちが、自分たちの祖国を助けたいという民族愛だけで戦争に行った。また、北と朝総連に圧迫されていなければ、あんなに多くの人が戦争に行かなかったかもしれない」と振り返った。
民団は、駐日代表部の指示では「非常対策委員会」体制で義勇軍の募集に努力した。そして7月3日は全国団長団会議を開催、義勇軍募集や技術者の本国送還などGHQに対して援助を要請する陳情書提出を決定した。
柳在萬軍人会副会長は、当時19歳でラジオ放送を通じて戦争の勃発を知ったという。そして新聞上を通じて志願兵の募集を知り、東京の民団支部に問い合わせて、申請用紙を受け取りに行って、志願書に記入して支部に提出したという。
数日後、民団から連絡があり、都内の駿河台ホテルに向かった。志願兵は100人ぐらいと憶える。民団関係者らによる確認と登録が行われた。
ホテルに2日間か泊まってからバスで米軍の朝霞キャンプに行った。そこで軍服が支給され、最初の一週間は体操や道具などの説明を受けた。
その後の一週間は行進の練習をした。そして、横浜から米国の船で韓国に出発した。米軍からはどこに行くとか、どこに行けとかいう指示もなかったという。