在日の従北との闘争史~6.25戦争と在日~②

奇襲南侵を「祖国解放戦争」と美化する北と朝総連
日付: 2014年10月16日 06時25分

 6・25戦争は、東西冷戦終息後に公開された極秘文書などの研究によってその性格や20世紀においての歴史的意味が最終的に究明された。6・25戦争は、スターリンが、毛沢東の中共と米国を戦わせるため周到に仕掛けた巨大な謀略に金日成を利用した戦争だった。
南韓を占領した米軍は、大韓民国の建国をうけて、1949年11月まで韓国から太平洋を越えて撤退した。独立はしたが、当時の韓国軍の武装は、19世紀の南北戦争(1861~64)当時の米軍の武装レベルだった。
一方、ソ連軍は北韓から撤退はしたがそれは豆満江を越えただけだった。スターリンは金日成に最新の武器を大量供給した。さらに、北は日本が残した機械や化学工場など、戦争遂行能力を保有していた。それで北側は、6・25戦争前には中国の共産革命を支援できたし、すでに自動小銃まで生産していた。
毛沢東は、国民党との国共内戦で戦った数万人単位の戦闘経験がある朝鮮人部隊を金日成に送った。金日成は戦闘経験が豊富なその部隊を南侵戦争の先頭に配置した。南侵戦争の作戦計画を作ったのもソ連軍将校たちだった。
なのに、平壌側と朝総連は今も、6・25戦争を韓国による北侵戦争で、それに反撃した「祖国解放戦争」と主張している。スターリンの戦略構想が書かれた手紙まで発見された今日も、朝総連は6・25戦争は北侵戦争だったと宣伝し、「1950年6月25日、アメリカ帝国主義は、不意に共和国にたいする侵略戦争の火ぶたを切った」と学校で教えている。
「旧朝連」の後継としての「民戦」の発足     
朝総連の資料は当時、「在日同胞と青年は、『すべての力を戦争の勝利のために』とのべた(金日成)首席の呼びかけを高くかかげ、祖国守護のたたかいにこぞって立ち上がった」と書いてある。
解散された「朝連」の残党たちは、この金日成の呼びかけに応じる形で1951年1月9日に「在日朝鮮統一民主戦線」(民戦)を結成した。
「民戦」は当初から、北の「祖国統一民主主義戦線」(民族戦線)の下部組織を自任し、その路線を追従した。1950年6月16日、神奈川県川崎市の朝鮮人学校で「旧朝連」系幹部60人が全国代表者会議を開催し、「在日朝鮮民主民族戦線結成準備会」の結成を決議し、各地方代表の準備委員も選出された。
6・25戦争が勃発するや、「準備会」は、「祖国統一戦取実行委員会」の名義で声明書を発表し、左翼系団体の戦線統一を呼びかけた。また、「祖国統一戦取実行委員会」を「朝鮮統一民主戦線準備会」(民戦)と改称し、全国各地方傘下団体や外郭団体にその旨を指令した。
そして、全国代表者70人が1951年1月9日、東京都江戸川区小岩の徐龍宅に集まって「在日朝鮮統一民主戦線」(民戦)の結成大会を開き、これにより、「旧朝連」の後継団体として再建された。
大会は大会宣言、綱領、規約、活動方針を決定した。「民戦」準備委員長の金薫による情勢報告では、6・25戦争を「祖国解放戦争」と規定し、「祖国解放戦争は新しい段階に入り、完全解放の日はもう遠くない。米帝の敗退は最早時間の問題である」と戦意を煽った。
地下暴力組織の「祖防隊」
また、6・25戦争が勃発するや、解散された「旧朝連」の「民青」(在日朝鮮民主青年同盟)系の青年たちは、各地で「青年行動隊」「祖国防衛隊」などを結成していた。ところが、1950年7月、秘密裏に「祖国防衛委員会」が結成され青年行動隊は「祖国防衛隊」(祖防隊)に編成された。この「祖防隊」は、暴力革命をめざす非合法的な手段を取る地下組織だった。


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