「朝連」は6・25戦争が勃発するちょうど1年前の1949年6月25日に平壌で開かれた祖国統一民主主義戦線結成大会に代表団を派遣し、会員に正式加入した。
朝連が「塩釜事件」や「下関事件」など、「民団」に対する暴力を激化させる勢いにのった背景と言える。そして、これが日本当局(GHQ)による「団体等規制令」によって暴力団体として「朝連」と「民青」に解散を命令できる名分になった。
それは、占領下の日本から、いわゆる「人民艦隊」で東海を越えて代表団を平壌へ送って金日成に忠誠を誓い、金日成の肖像画をすべての事務室にかけるようにする(1949年2月、「朝連」第17回中央委員会決定)など、「朝連」の行動は日本共産党よりも危険な革命前衛勢力として看做されたためだ。
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「朝連」台東会館の接収警備 |
「解放後在日朝鮮人運動史」は、解散される当時の「朝連」の組織は、48府県本部、620支部、1214分会、「民青」は48府県本部、458支部、306分会で、「朝連」構成員は36万5792人、「民青」は3万9740人だったと記録している。「民団」は宮城本部(支部2、分会2)と「建青」塩釜本部が解散させられたのは、「朝連」「民青」との物理的衝突を起こしたので止むを得ないことだったという。
「朝連」の全財産を接収、国庫に帰属させた日本当局は、「朝連」19人、「民青」9人、「民団」5人、「建青」3人の合計36人の幹部を公職から追放し、10月19日に「朝連」が運営した学校閉鎖令を出した。
解散措置に対して「朝連」は同年9月8日、「解散に対して絶対に挑発にのるな」「絶対に集団化した反抗をしてはならない」「女盟(在日朝鮮民主女性同盟)の財産として合法的に接収を拒否すること」など全国の「朝連」組織に電報で指令した。
「日本の中の38度線」によると、「朝連」創立以来、集団的闘争を禁止し、合法的手段をとることを指示したことは、それだけ「朝連」にとっても強い衝撃であり、意表を突いた出来事でもあったという。一方で「民団」は同年9月、「朝連」の解散措置に対して、「朝連」は国際共産主義の走狗で解散は当然であるとした。さらに日本共産党も解散すべきであるという内容の声明文を発表した。
「朝連」は9月の解散措置に対して、全国規模で解散取り消しの署名運動や抗議集会を展開した。特に「女盟」を中心に抗議行動や署名活動の運動をはじめた。また、日本共産党に入党する者も増えた。同年9月18日に開かれた「女盟」兵庫本部の大会では、参加者1000人が日本共産党に入党する決議をした。
「朝連」は解散措置による財産没収で抵抗し、事件に発展したケースもあった。「警視庁史」によれば、都内の「朝連」台東会館では、東京都の接収に対して反対運動を展開した。これに日本共産党も同調し、党中央委員会名で接収反対の声明書も発表した。
1950年3月10日、都は強制接収に出たが、約300人の「民青」や学生らが抵抗し、会館を占拠し続けた。都は同月20日に再度強制接収しようとしたが、約500人に増えた「民青」や学生らは、バリケードを築いたり、小石や鉄片などを投げたりして抵抗した。
しかし、警察は会館に突入して、当時学生だった文在連ほか119人を現行犯で逮捕し制圧した。警察官も231人の負傷者を出した。この事件では25人が起訴され、9人が懲役1年6カ月から6カ月、執行猶予3年から2年の判決を受けた。