在日の従北との闘争史~民団結成から韓国戦争勃発まで~⑬

暴力化した「朝連」に対抗した「民団」
日付: 2014年09月18日 03時31分

 解放後、北韓を占領したソ連軍はスターリンの指令によって直ちに社会主義体制を北に移植した。南韓の左翼勢力も平壌のソ連占領軍司令部の指示を受けて社会主義国家の樹立活動を展開した。
1948年に入り、南韓では制憲国会選挙を阻止しようとする南労党による暴動や反乱が起きる。こういう状況はそのまま日本にも影響し、民団と「朝連」の対立が激化した。その中で、宮城県で「朝連」と「民団」の解散措置の理由となる「評河原事件」(1948年10月11日、12日)いわゆる「国旗掲揚事件」や「塩釜事件」(1949年7月14日)が起きた。
「朝連」の東北地域の拠点でもあった宮城県では、「朝連」と「民青」東北地協が合同で、1948年10月11日と12日の両日間、仙台市評河原運動場で北に社会主義政権が誕生したことを祝う行事を開催した。このとき、北の「国旗」を掲揚した事件(「評河原事件」いわゆる「国旗掲揚事件」)が起きた。GHQが北の「国旗」掲揚を禁止したのに、「朝連」側は憲兵や警察の指示を無視した。
「宮城県警察史」などによると、青森から参加した金四岩(当時21歳)が憲兵や警察の指示を無視して北の「国旗」を掲げたため、憲兵にピストルで制圧され逮捕された。行事責任者の「朝連」宮城本部委員長の金景河(当時34歳)も逮捕され、ほかにも6人が逮捕された。金四岩などは、軍事裁判で重労働3年を言い渡された。朝総連資料によると、この事件を起こした北の「国旗」は今、平壌の朝鮮革命博物館に展示されているという。
「朝連」の挑発行為が暴力化するなか、1949年7月14日、「塩釜事件」が起きるが、同事件の直前に、抗争を触発した事件が2件起きた。
7月8日、「民団」宮城初代団長の朴四次(当時41歳)が、「朝連」の裵開東(当時31歳)を口論の末に殺害した。この事件により、朴は3年間服役した。同じ日には、「朝連」の申三峰(当時29歳)が「民団」宮城外交部長の李憐基(当時30歳)の自宅に侵入して石で頭を殴る事件も起きた。
そして7月14日にも、多賀城市内で塩釜支部団員の3人が「朝連」を非難するビラを電柱に貼っていたところ、「朝連」多賀城分会の2人がこれをはがし、それを知った塩釜支部団員12、13人が駆けつけて、「朝連」の2人を塩釜支部に連れて行って暴行し、わび状を書かせた。これが「塩釜事件」だ。
この件で「朝連」と「民団」は同月14日~19日にかけて、仙台市内や塩釜市内で大規模の集会を開いて双方の非難合戦を続けた。19日には塩釜市海岸広場前で同じ時間帯に「朝連」と「民団」が街頭演説を行い、一触即発の危機にもなった。同事件では、「民団」団員の8人が、暴力行為等処罰に関する法律違反などで、翌年4月に仙台地裁で懲役10カ月から3カ月、いずれも執行猶予3年を言い渡された。
民団宮城役員によると、当時の解散措置で日本当局に財産や資料が没収されたため、初代団長の資料は今も持っていないという。塩釜支部は、「民団」が最初にできたところでもある。港町ということもあって港湾関係の仕事についていた血気盛んな青年たちが集まっていた。6・25戦争が勃発するや、塩釜支部から16人が学徒義勇軍として志願し参戦した。


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