『韓国の大量虐殺事件を告発する―ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』(展転社)を記した北岡兄弟は、韓国軍が南ベトナムの約100カ所で、1万人から3万人を虐殺したことを確認するため、今年2月2日から8日までの間に19カ所を訪れ、約5000人の虐殺を確認したと主張する。しかし、2人が訪ねた慰霊碑は、1965年12月22日から1965年2月12日の間に虐殺事件があったとされた13カ所・2580人だった。
2人は、韓国は大量虐殺の責任と罪をアメリカに転嫁していると主張し、韓米離間策を弄する。狡猾にも米国におもねりながら、米国はベトナム戦争を総括し反省したが、韓国は反省も良心の呵責もない民族だと断じている。
前回も指摘したとおり、北岡兄弟が調査したという内容は、韓国語で書かれ左翼系の資料と一致する部分が多い。「ハミ村の慰霊碑」を韓国人が建てたという部分が代表的な例だ。フーイェン省の犠牲者数は、「韓国人の調査では1795人である。筆者達の推計では2000人から3000人である」と、韓国側の数字を出して書いている。
韓国の左派や、北韓をはじめとする国際共産主義勢力は、特に東西冷戦時代、韓国軍が自国民にまで残虐行為をし、虐殺したと宣伝してきた。そういう謀略の典型が1980年5月の「光州事態」だ。
韓国軍がベトナムで人の首をはね、手足を切断し、妊婦の腹を切り裂いたという話は、1980年の「光州事態」のときに韓国軍に着せられた濡れ衣そのものだ。当時も数千人を殺したというデマを少なからぬメディアが伝えた。光州事態での虐殺説を流したグループと韓国軍のベトナム良民虐殺説の主役らはほとんど重なっている。
北岡兄弟は、大量虐殺を起こした韓国の全斗煥、盧泰愚は、まったく裁かれていないと書いたが、全斗煥大領(大佐)が連隊長としてベトナムで任務をこなしていたのは1970年から71年だ。つまり、北岡兄弟が提示した1965年12月から1969年2月までの期間には当てはまらない。
北岡兄弟は、18人の「解放軍」(ベトコン)が300人の韓国軍と戦って100人を殺したというベトナムの村人の話を紹介し、「(北ベトナム軍の戦勝碑に)韓国軍が400名殲滅されたという碑文を読んで、調査チームは快哉を叫んだ」と書いている。北岡兄弟がそこまで賞賛する「解放軍」は、南ベトナムが共産化された後に国外脱出を試みて南シナ海で死んだ多数のボートピープルを生んだ主体だ。もっとも、「解放軍」自身も多くが北ベトナムによって粛清されるのだが。
北岡兄弟は、「日本は韓国の大量虐殺を世界に訴え、韓国の慰安婦問題、歴史問題を撤回させ、謝罪させねばならない」というのが結論だと明言している。しかし、これはおかしな主張である。
そもそも、韓国とベトナムの問題に日本人が関与するのがおかしい。ましてや、ベトナム戦の「虐殺」問題と慰安婦や歴史認識などを”取引”できるという発想を抱くのが信じられない。彼ら自身が、「韓国併合や慰安婦と、韓国軍の虐殺では、次元が異なる問題である」と自著の中ではっきり言っているではないか。
北岡俊明、正敏兄弟が、韓国軍がベトナムで大量虐殺したことを世界中に知らせるべしと執着するのは、韓国が仕掛けた「情報戦争」で日本が負けているという被害妄想から始まっている。
日本は韓国との情報戦争に打ち勝たねばならないと彼らはいう。とんでもない妄想だ。情報や戦争や歴史がどのようなものかをまったく知らない、素人感覚での話だ。
2人は、「情報戦争」の例として、安重根記念館を取り上げている。韓国国民が祖国の敵を倒した安重根を讃えるのは当然だ。日本では、藩主の仇を討った赤穂の47士が「忠臣蔵」で賞賛されている。彼らが批判されることはまずない。
また、韓国が東海と呼ぶのも「情報戦争」だと言い掛かりをつける。呆れるしかない。「東海」は、韓国の国歌(愛国歌)が「東海の水と白頭山が乾き平らになるまで…」と始まるように、韓半島では昔からそう呼ばれてきたのだ。韓国の国歌を「日本海と白頭山が…」のように変えろというのか。
北岡兄弟は、「戦争犯罪に時効はない」という歴史認識を披露している。その上で日本では太平洋戦争敗戦後、約1000人が戦犯として処刑されたと悔しがる。だが、その中には多くの韓国人が含まれている。
2人は、「日本は韓国を合法的に併合したのである。武力や軍事力で戦争をしかけ、占領したのではない。朝鮮人を虐殺し、奴隷にし、搾取し、収奪し、略奪したのでは断じてない」という。そして、「韓国軍には、日本の戦史である日清、日露、大東亜戦争などの輝かしい戦歴はない」、「日本海海戦も、奉天会戦も、旅順攻略戦も、真珠湾攻撃も、マレー沖会戦も、硫黄島の戦いも、特攻隊も、民族としても誇るべき戦争は彼ら(韓国)の歴史には欠落している」と侵略戦争を自慢している。
北岡兄弟自らが挙げているこれらの戦争は、侵略戦争でなく何なのか。日本は、大陸進出の橋頭堡にするため、まず韓半島を植民地にした。そのため日清戦争と日露戦争をしたのではないか。
7月23日は、日清戦争勃発120周年の日だった。日清戦争は日本軍が韓半島を戦場にし、朝鮮の王宮を占領することで始まった。日清戦争で殺された朝鮮人は3万人にのぼる。
日本兵は王宮の警備兵を殺し、王であった高宗を捕虜にした。そして、1年後、朝鮮の王宮に侵入して王妃を殺した。この極悪野蛮な犯罪者は処罰されなかった。
北岡兄弟こそ軍国主義者、人種主義者の典型だ。2人は、結論的に日本がなすべきことは、「日韓の政治、文化、経済、すべての交渉を一時中断すべし」と言った。もはや批判する価値もない。
来年は第2次世界大戦が終わって70年になる。戦後の世界を見渡すと、自由陣営が東西冷戦で勝利し、ヨーロッパでは敵同士だったドイツとフランスが中心になって経済的・政治的共同体であるEUができた。ところが、アジアでは、共同体どころか、冷戦が激化している。
韓半島は、日本帝国の下手な負け方のため、北の半分は今も植民地時代以上の悲惨な状況で解放を待っている。1945年8月、韓国人だけでなく日本人も軍国主義から解放されたはずだ。なぜ、70年前に克服されたはずの亡霊が徘徊するのか。(洪熒・本紙論説主幹)